画像出典:情熱大陸 公式HP
片岡仁左衛門(かたおか にざえもん)という歌舞伎役者をご存じですか?
正確には、十五代目 片岡 仁左衛門という歌舞伎界の大名跡「片岡仁左衛門」の当代です。
では、彼のプロフィールについて詳しくお話していこうと思います。
十五代目片岡仁左衛門のプロフィール
1944年3月14日生まれ
本名は片岡孝夫(かたおか たかお)
屋号は松嶋屋
昭和~平成の時代を代表する歌舞伎俳優。
持ち前のスタイルの良さと目尻が下がった甘い二枚目の風貌から、彼の色気については良く評されています。
五代目坂東玉三郎とのコンビ(孝玉コンビ)が、彼の人気に拍車をかけ実績を積み上げてきました。
通常は、名跡の跡継ぎとして長男が継承することが殆どの歌舞伎界でありながらも、彼の人気と実績を考慮し、父十三代目片岡仁左衛門、永山武臣松竹会長の力添えもあり三男でありながらも、十五代目片岡仁左衛門に抜擢されました。
1949年9月 当時五歳の時に、『夏祭浪花鑑』を中座で講演。片岡孝夫として初舞台を踏みます。
1964年 『女殺油地獄』の与兵衛役で一躍有名となり関西の歌舞伎界で片岡孝夫の名を世に知らしめることとなる。
1966年 小学校からの同級生と結婚。
1998年 十五代目片岡仁左衛門を襲名
2015年 重要無形文化財(人間国宝)に認定。
上方歌舞伎界の不振と上京
昭和30年代、関西の歌舞伎界は不振に喘いでいました。
五歳で初舞台を踏んでから注目を浴びてきた片岡仁左衛門(当時は片岡孝夫)でさえも、上方歌舞伎界の不振を解消することは困難でした。
そして、それは小学校時代の同級生で、舞妓をされていた博江さんとの結婚の翌年のことです。
しかし、江戸(関東)歌舞伎では、上方(関西)の歌舞伎に対して風当たりも強く、なかなか受け入れられることはありませんでした。
上方では歌舞伎が不振、望みをもって上京した江戸歌舞伎界では受け入れられず。
当時の片岡孝夫氏の苦悩は、さぞかし大きなものだったことでしょう。
一般の仕事とは違い、無理があるからと辞めることも出来ません。
その苦悩は、一般人には想像することも難しい事かもしれません。
片岡孝夫氏の運命を変えた坂東玉三郎氏との出会い
江戸歌舞伎界で長く苦悩の時代を過ごしていた片岡孝夫氏に運命の出会いが起こります。
それは、坂東玉三郎氏との出会いでした。
元々、長身で甘いマスクの片岡孝夫氏、それに負けない容姿端麗な坂東玉三郎。
この二人の組み合わせが、江戸の歌舞伎界で化学反応を起こします。
後に伝説とまで言われた舞台『桜姫東文章』
この、舞台により坂東玉三郎と片岡孝夫の艶のある演技が観客の心を魅了し、孝玉コンビとして火がつきます。
二人が同じ舞台に立つと、お互いがお互いを引き立てあい妖艶な舞台となり、稀代の名コンビとまで評されるまでの人気を博したのです。
後に坂東玉三郎はこの出会いを「運命としか言いようがない」と表現しています。
そして、これをきっかけに片岡孝夫の名前が江戸歌舞伎界でも認められはじめました。
そして、片岡孝夫氏は江戸歌舞伎界の象徴とも言える『助六』で、歌舞伎座の観客動員数では過去最高という記録を作ります。
それは、上方歌舞伎界の不振により片岡孝夫氏が江戸に上京してきてから既に20年もの歳月を経たていました。
上方歌舞伎界の不振
上京してからの上方歌舞伎に対する冷ややかな評価
型に重きをもつ江戸歌舞伎界と、風を心情とする上方歌舞伎の違い
20年という歳月
これらを経て、坂東玉三郎と出会い
ついに歌舞伎を愛する人々が片岡孝夫を認めたのです。
片岡仁左衛門を支え続けた嫁、博江さん
人間国宝となられた片岡仁左衛門さんにも、歌舞伎生命が危うくなった時がありました。
片岡仁左衛門さんは、元々からだが決して強い方ではありません。
台詞を覚えるまでは食べ物も喉を通らなくなるほど歌舞伎に対してはストイックな面もあり、文字通り命を懸けて歌舞伎に生涯を捧げてこられました。
そんな片岡仁左衛門さんはある公演で身体を壊しました。
食道に亀裂が出来るほどの重症でした。同時に肺にも膿がたまり身体に何本もの管を通して膿を吸い出すという重症でした。
食道の亀裂があるため、身体に栄養を取り入れることが出来ない状態でしたので、医師はまず栄養濃度の高い点滴を投与したのです。
しかし、これは体質によってはからだが受け付けないこともある治療方法の1つでした。
元々からだが丈夫な方ではない片岡仁左衛門さん、やはりこの点滴はからだが受け付けなかったのです。
医師は、次に喉の部分を切開して胃に栄養を送る管を入れることにしました。
この時、片岡仁左衛門さんの奥様博江さんは医師の治療に対して「まった!」をかけます。
歌舞伎役者にとって大事なことが三つあります。
それは、こうした言葉でしばしば表現されます。
「声よし 顔よし 姿よし」
片岡仁左衛門は、まさにこの三拍子を備えたことで人びとから支持を得たことを熟知していた博江さん。
喉に管を通すことで、片岡仁左衛門の声をもし失うことになったら。
誰よりも命を懸けて歌舞伎を演じてきた夫の気持ちを考えたら、それは歌舞伎役者として命を失うのと等しいほど耐えがたいことに違いない。
そう考えた博江さんは、医師に直談判をして治療方法を変えるように求めます。
医師は、様々なリスクを最大限考慮に入れながら、治療方法を模索しました。
そして、喉の部分を切開するのではなく、胃に直接管を入れる手術をする方法を採用したのです。
これにより、声を失う危険を回避した片岡仁左衛門さんは次第に食道の亀裂も塞がって行き、時間は掛かりましたが見事に復活をされます。
もし、博江さんがこの時、素直に医師の言う通りに治療方法を受け入れてしまっていたら、片岡仁左衛門さんの身体は順調に回復したでしょう。
しかし、人間国宝となった片岡仁左衛門さんは見られなかったかもしれません。
普通なら、医師の言う通りにお願いをすることで終わってしまう話かもしれません。
しかし、長い年月
自分の夫がどれほど歌舞伎に心血を注いできたのか
自分の夫が、ここまで来るのにどれほどの苦労と努力を乗り越えてきたのか
自分の夫が、声を失ったら
同時にどれだけのものを失ってしまうのか
これらを知っていた博江さんだからこそ
この大局を見切れたと言えるかもしれません。
まさに、人間国宝片岡仁左衛門は夫婦二人の信念が実を結んだ結果なのです。
生きていくこと
歌舞伎役者として生きていくこと
それを支える嫁として生きていくこと
視点が違っても、それぞれにおいて生きることに楽な道はありません。
私たちも生きる上で、色々なものを失いながら守るべきものの為に生きています。
あなたの守るべきものは、本当に大事なものですか?
周囲や、世間の常識ということに流されて本当に守りたいものを見失って居ませんか?
博江さんのように、本当に守るべきものを知る生き方を僕自信も出来るように、会社や世間の目に流されず生きていけるようになりたいものです。