第二次世界大戦の最中、世界中で沢山の命が失われる悲劇がありましたが、
その辛い出来事のなかで一人の日本人のとった行動がいま注目を浴びています。
その日本人の名前は杉原千畝(すぎはらちうね)。
戦時中、リトアニアに外交官として赴任していた一人です。
杉原千畝氏について語る前に、当時の東欧に起こった出来事から簡単に説明をしたいと思います。
第二次世界大戦は、ご存じの様にドイツ、イタリア、日本の3国が軍事同盟を結び世界を巻き込む大戦へと発展しました。
欧州では、ドイツがヒットラー率いるナチスによってユダヤ人への非情な弾圧・迫害が行われていました。
ドイツは、ポーランド進行を皮切りに周辺の欧州諸国への侵略・占領を強めて行きました。
ヒトラー率いるナチスドイツは、侵略だけでなく「アンネの日記」でもわかるように、ユダヤ人への差別と迫害は異常なほど行われました。
杉原千畝氏は、そんな時代背景の中、ドイツが侵略をしていく国のひとつリトアニアにて外交官として駐在していたのです。
リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝氏の目に写ったのは、ナチスドイツによる非情な迫害から逃げる為にリトアニアに流れてきたユダヤ人難民たちが逃げ場を失っている姿でした。
日本領事館には、亡命をつよく願うユダヤ人達が塀の外に群衆となり訴えかけています。
もし、自分がこのユダヤ人達を助けるとしたら出来る事はひとつ。
日本への渡航ビザを、今にも命の灯が消えそうになっている塀の外に溢れるユダヤ人全員に発行すること。
彼に出来ることは、それしかありませんでした。
杉原千畝氏が、本国外務省に訴えかけた電信の内容は以下の通りです。
①人道上、目の前のユダヤ人達が殺されるのを分っていて手を差し伸べない事は人道上どうしても出来ない。
②パスポートでなくても、領事が認めたもので渡航を認められるようにしてほしい
③日本への滞在ビザではなく、緊急回避のためのものとして、ソ連横断を20日以内、日本本国での滞在を30日、合計50日のビザとして申請させて貰えるだけでよい
この3点を本国外務省に交渉をするために電報を打ちます。
そして本国の回答が来ました。
結果は不可。
その当時、まだ日本とドイツは軍事同盟を締結する前でした。
時の外務大臣、松岡洋右は、日本とドイツの関係性を考慮すると、ドイツを刺激するような行動は取るべきではないと判断しました。
杉原千畝は苦悩します。
杉原千畝は、これまでエリートとして外交官を勤めてきました。
守るべき家族も居ます。
もし、自分が個人の感情で本国の命令を無視した行動をとれば、異国の地で仕事も失い家族にもどんな苦労をかけてしまうか分かりません。
しかし、目の前の助けを求める多くのユダヤ人を見捨てることは、今の自分の立場を失う事よりも辛い。
出典:http://action-now.jp/archives/1790
杉原千畝の心の中でひとつの覚悟がなされます。
それは杉原氏の奥様、杉原幸子氏の著書「六千人の命のビザ」でも書かれています。
「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください。」
私の心も夫とひとつでした。
大勢の命が私たちにかかっているのですから。
夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。
「いざとなればロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。
「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さないだろう」
それだけの覚悟がなければできないことでした。
罪も無い多くの人達の命がかかっている以上、自分達の生活や外交官としての立場よりも優先すべきことがある。
杉原氏はそのとき、奥さんを少しでも気を楽にさせたいとこんな言葉をかけています。「いざとなればロシア語でなんとか食べて行くぐらいはできるだろう。」
杉原千畝氏ユダヤ人にむけて「命のビザ」の発行
杉原千畝は、本国の命令を無視して領事館を囲むユダヤ人にビザの発行手続きを開始します。
ひとりのビザを発行するのにかかる時間は、どれだけ急いでも5~6分。
1時間で発行できる人数は、どれだけ急いでも10人が限界でした。
しかし、時は急を要します。
杉原千畝は片時も手を止めることなくビザの発行手続きを続けます。
食事もとらず、寝る間を惜しんで、手が動かなくなるまでビザを書き続けました。
しかし、ついに領事館にあるビザ発行の書類の在庫が尽きてしまいます。
その後は、書類すべてを手書きで行わなければならず、より一層の手間と時間を要しました。
その後の流れはこうです。
リトアニアがソ連に併合され、杉原氏には日本本国やソ連政府から領事館の退去命令が届きました。
杉原氏は、これらさえも無視してビザを発行し続けます。
いよいよ、本国からベルリンへの異動命令が下り無視しつづけることが困難になっても、家族でホテルに移動します。が、そこでもビザの代わりになる渡航証明書を発行しつづけます。
いよいよ時が迫り、家族がベルリン行きの列車に乗り込む際も、まだ杉原氏は書類を書き続けます。
杉原氏が乗り込んだ列車のそとにいるユダヤ人に、列車が走り出す瞬間まで書き続けたのです。
いよいよ列車が動き始めたとき、杉原氏はユダヤ人達にこう言います。
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。
茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼きついています。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。
(杉原幸子著「六千人の命のビザ」より)
アドルフ・ヒットラー
ナチスドイツは、第二次世界大戦中にホロコーストによりとてつもなく多くのユダヤ人の命を奪いました。
杉原氏は、そのままでは確実に失われるであろうユダヤ人の命を救うために、我が身を捨てて行動したのです。
彼の行動により、推定6000人ものユダヤ人の命が助かったと言われています。
ホロコーストの被害者全体からの数字でみると、それでも少ない数かもしれません。
しかし、彼のとった行動により生き延びたユダヤ人達は、彼の事を今でも決して忘れていないのです。
イスラエル政府から、「ヤド・ヴァシェム勲章」、ポーランドからは「ポーランド復興勲章」、そしてホロコーストからユダヤ人を守る行動をとった非ユダヤ人だけに贈られる称号「諸国民の中の正義の人」という名誉ある称号も授与されています。
さて、彼の発行したビザで命を救われたユダヤ人達は、その後どうなったのでしょうか?
実は、杉原千畝氏が発行したビザを手にしたユダヤ人たちが、日本に上陸した史実があります。
その場所は、敦賀です。
敦賀港の近くに、「人道の港敦賀ムゼウム」という博物館があります。
出典:http://www.turuga.org/places/museum/museum.html
1920年シベリアで救出されたポーランド孤児、そして1940年杉原千畝が発行したビザを手に握りしめて敦賀港に辿りついたユダヤ人達の記録を展示しています。
彼の行動は、現在でも世界中で称賛されています。
本物のサムライと評する外国人も居ます。
私達の先人には、杉原氏のような私利よりも人としてのあるべき行動を決断する日本人がいること。
日本人としての誇りとはなんなのかをもう一度見つめ直す意味でも
杉原千畝氏の想いと行動を見直してみてはいかがでしょう。