田部井淳子さんと言う方をご存知ですか?
出典:http://www.life-assist.net/LA/ikiru/06/
11月27日(金)NHK20:00から放送の「団塊スタイル」にて取り上げられた女性登山家です。
世界で女性として初のエベレスト登頂に成功したことで有名な方です。
世界七大陸最高峰への登頂にも成功した女性登山家ですが、人生という長い道のりの途中ではがんを患ってしまい余命3カ月とも言われました。
そんな田部井淳子さんの、これまでの道のりをとりあげてみました。
田部井淳子さんのプロフィール
1939年9月22日 福島県田村郡三春町出身
現在は埼玉県川越市に在住
小学生の頃の山登りがきっかけとなり、社会人の山岳会に加入し本格的に登山活動を開始
1965年 女性ペアでの谷川岳一ノ倉沢積雪期登攀(とうはん)に成功
1969年 女子登攀クラブ設立
1970年 女性だけのアンナプルナⅢ峰(7555m)の登頂に成功
1975年 エベレスト日本女子登山隊 副隊長兼登攀隊長として世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)に女性初の登頂に成功
田部井淳子氏とエベレスト初登頂
今からちょうど40年前の1975年5月16日 世界中の登山家達が驚く偉業が達成された日である。
世界でまだ女性でのエベレスト登頂は、達成されたことがなかった。
その偉業を初めて成し遂げたのが、田部井淳子氏とその仲間達なのである。
田部井淳子さんたちが達成した偉業の裏側には、一般には知られていない困難な壁がたくさんありました。
それは、女性であることや、技術的なことということだけではありませんでした。
当時、エベレスト登頂を目指すとなると、その費用は4000万円以上が必要でした。
40年前の平均的な女性の初任給といえば約4万円程度。つまり月給の1000倍もの費用を用意しなければならなかったのです。
その為、節約できることは、どんなことでもされたそうです。
例えば、手袋を廃材を切って自作でつくるなどといったこともしなくてはならないほど、お金の問題は大きかったのです。
田部井淳子さん達のエベレスト登頂女性登山隊は、世界一経済的に恵まれない状況でエベレストに挑戦する極貧の女性登山隊でもあったのです。
そんな試練と立ち向かう過酷な準備期間に4年を費やし、やっとの想いでエベレストに挑んだ女子山岳隊。
ベースキャンプに辿りついた彼女達に待ち受けていたのはまたしても大きな試練と悲劇でした。
夜、ベースキャンプのテントで寝ている15人の女子山岳隊を巨大雪崩が襲ったのです。
15人のうち、13人が重軽傷。
新聞の見出しでは、「女子山岳隊のエベレスト初登頂は絶望的」と書かれ日本中の誰もが諦めていました。
しかし、女子山岳隊の隊員達はそれでも諦めませんでした。
「4年もの長い期間、訓練を積み重ね、苦しい経済事情の中で資金を貯めて、やっとの想いで辿りついたチャンスを、こんなことで無駄にしてたまるものか!」
常識では考えられない事態の中、日本女子山岳体隊員は頂上アタックに挑むのです。
結果は、日本女子山岳体、女性初のエベレスト登頂に成功。
頂上に立ったのは、田部井淳子さん。
エベレスト登頂には、隊員全員は参加出来ません。
登山の経験者でなければ、知らない事かもしれませんが
頂上を目指すメンバーは、最終キャンプまで行った後に隊長が指名するのです。
その場所に行くまで、誰が登頂アタックメンバーになれるのか分らない。
だけど、訓練も資金も隊員達はみんな平等に負担しているのです。
本当は、自分が行きたい。
誰もがそう思うでしょう。
それでも、残された隊員達は、選ばれた隊員に想いを託して背中を見送るのです。
こんなことは、うわべの友情では成り立ちません。
さらに、友情だけではおさまらない場面もあります。
自分の意見を主張する人
アタックメンバーに選ばれる様に画策する人
場合によっては、言い合いにだってなります。
それでも命にかかわるアタックに挑むのですから
隊長は、時として喧嘩になっても纏めなくてはなりません。
隊長は、いつも孤独。
しかし、こうした経験を培うことで得た強さを
田部井淳子さんは、思わぬところで発揮することとなります。
それは、エベレスト女性初登頂からずっとあとになってからの事です。
田部井淳子さん、がんと診断、医者から余命3カ月と宣告
田部井淳子さんの身体に異変が生じたのは、2007年の夏。
アルメニアのアラガツ山(標高4090m)
登山中にコットンで体を拭いていると、胸にポッコリとした膨らみがあることに気付きました。もしこのときタオルで汗を拭いていたら気付くのが遅れていたと言われるくらい小さな膨らみだったそうです。
帰国して、診察を受けた結果、がんと判明。
早期乳がんでした。
乳房温存手術を受けて一旦落ち着きます。
幸い、リンパ節にも、他の臓器にも転移が見つかりませんでした。
驚いた事に、この手術の10日後には
田部井淳子さんはバルト三国で山に登っていたそうです。
手術の抜糸もされていなかったそうです。
驚異的な心身の持ち主だということが伺えますね。
東日本大震災の翌年、田部井淳子さんがん再発余命3カ月と診断
最初のがんから5年ほど経過した2012年。
再び田部井淳子さんの身体に異変が生じます。
お腹のあたりが針で刺したようにチクチクした痛み。
しばらくすると忘れてしまうが、また痛みが。
1カ月ほどこれを繰り返した後に医者である兄の元へ。
診断の結果、がん性腹膜炎でした。
がん細胞が腹腔の中でちらばっており、ステージⅢC(他臓器への転移の状態)と診断。
余命は3カ月と宣告されました。
そして抗がん剤治療を開始。
TC療法(パクリタキセル+カルボプラチン)の抗がん剤治療を受け、手術をしました。
しかし、田部井淳子さんは、この術後の抗がん剤治療中も山を登ります。
歩くことが生きること
子供の頃から山が好きだった
これまで世界七大陸の最高峰にも挑戦し、登頂に成功してきた田部井淳子さん。
がんの治療で投与した抗がん剤の副作用で足をあげることすらキツイ中、彼女はそれでも山に登りました。
登山と登山のあいまに、がんの治療。
彼女にとって、山を登るということが生きることそのものなのです。
これまで68カ国の最高峰を登攀してきた田部井淳子さん。
余命3カ月と言われた2度目のがんから約3年経過
数々の著書を出版されました。
それらは、山を登る人だけでなく、がんと向き合う人達、さらには人生の苦難と向き合う人達にたくさんの勇気を与えてくれています。
山を通じて人生を語るその口調には、気取りがなく
むしろ、あるがままをさらけ出していることからも田部井淳子さんの信条が伝わって来ます。
田部井淳子さんと息子さんのエピソード
田部井さんの数々の著書を読むとよくわかりますが、普通で有れば綺麗に取り繕うようなエピソードでも、田部井さんは隠さないのです。
それを如実に感じるのが「アンナプルナ・女の戦い7577m」
この中では、登山の中で起こった揉め事や争い、女同士の戦いをさらけ出しています。
また、あるテレビ番組に息子さんと出演した際では、当時自宅謹慎や停学を繰り返し行儀の悪かった息子さんの姿を誤魔化すことなくさらけ出して撮影をされています。
たとえ、自分のイメージを悪くするようなことであっても、田部井さんは隠す事をしないのです。
その人柄は、大自然への挑戦を繰り返してきた田部井さんだからこそ得られたものかもしれません。
普通の人が気にするようなことも、大自然の山に比べたら小さいこと
隠さずさらけだそう
この人柄が信頼を集め、人が集まってくる理由ではないでしょうか。
筆者からのメッセージ
実は、この記事をかいている現在、僕自身も入院を控えています。
今までの無理がたたり、入院をすることになりました。
過労死予備軍とまで言われるぐらい無理をしてしまったのです。
大事な友人に報告をしたところ
ありがたい言葉をいただきました。
この記事を読んでくれたあなたにも、その言葉をお届けしたいと思います。
その友人も、これまでなんども入院を繰り返して来られました。
中には、命が危ないということもありました。
その彼が僕にくれた言葉
僕も何度も入院していますが、その度にいい時間を持てたなって思います。人生には立ち止まる時間も必要ですね。
今の僕にとって、これほどありがたい言葉はありません。
人生には、山もあれば谷もある。
聞きなれた言葉ですが、本当にそうです。
歩き続けることも大事ですが、時には立ち止まり
自分を見つめ直す時間があっても良いんだ。
そう思います。
今回の病気にも、僕の人生にとって意味のあることなのかもしれません。
この世におきし全ての理
すべて魂磨きしたもうこと
我行い統の道なりて 一闇一光の道にならぬ
我生まれおきし全ての理 魂磨きしたもう思え
我が身に起こる全ての現象は、すべて意味があること
それは自分の魂を磨くために与えられたものなのです。