日本サッカー界において類まれなる才能を持ち、
あの中田英寿氏に「彼が一番上手かった」と言わしめながらも
ブルーのユニフォームを着る事が無かった幻の10番が居たことをご存知でしょうか。
日本サッカー界の至宝と言われた中田英寿氏や、宮本恒靖氏、松田直樹氏といった黄金期を担う選手達も含まれた若手メンバーの中でひときわ異彩を放つ選手がいました。
その選手の名前は、財前宣之(ざいぜんのぶゆき)氏。
1993 FIFA U-17世界選手権で10番を背負い
アジアから唯一の世界選抜チームに選出された選手です。
しかし彼は、日本代表としてワールドカップのピッチに立つ夢は叶えることが出来ませんでした。
才能では中田英寿よりも上と言われながらも悲運によって栄光を手にすることが出来なかった天才
幻の日本代表10番と言われた財前宣之選手
今日は、そんな彼のサッカー人生や経歴や現在の活動を紹介したいと思います。
財前宣之選手のwiki風プロフィールと経歴
生年月日:1976(昭和51)年10月19日
出身:北海道室蘭市
身長:170cm
体重:66Kg
利き足:右
兄弟:お兄さんは元サッカー選手の財前恵一氏
高校:東京実業高校
ポジション:MF
財前宣之選手の経歴と軌跡
13歳の時に読売ジュニアユースに加わる (1989-1991)
読売の入団テストでは、当時のコーチであった小見幸隆氏が
「ボールをもった瞬間に合格」と言うほどセンスに溢れる少年でした。
16歳から読売ユースに加入(1992-1994)
1993年のU-17世界選手権日本代表チーム
背番号10番
リーグ戦3戦に参加し、すべての試合でマンオブザマッチを獲得
本大会の記録はベスト8
この大会では、ベストイレブンにも選出される素晴らしい活躍をします。
この当時、財前選手のプレーをあの中田英寿選手は体育座りで真剣に見ていたのでした。
チームメイトであった故松田直樹選手も、U-17日本代表チームで「財前選手にまず認められるかどうかで自分の立場が決まる」という認識だったことを後述されていました。
この1993年は日本サッカー界においても意味のある年でした。
Jリーグが誕生した年でもあり、U-17世界選手権も日本で開催されました。
この年のU-17世界選手権では、ルールが少し違う点がありました。
通常スローインをする場面で、スローではなく、キックインというルールが採用されていたのです。
これを巧みに活かしたのが日本代表でした。
正確なキックを武器とするMF財前宣之がキックイン、それをFW船越優蔵に繋ぐ、こぼれ球をMF中田英寿が拾うという戦い方を徹底しました。
これによりグループリーグを見事に突破。
ベスト8へと勝ち進んだのです。
財前選手のユース後のサッカー人生と経歴
ユース時代に輝かしい戦績を残した財前宣之選手は1995(平成7)年、読売ユースからヴェルディ川崎に昇格します。
そして、その後の1996(平成8)年にはイタリアに短期留学
セリエAの名門であるSSラツィオへと留学します。
SSラツィオには、当時イタリア代表であり、EURO96のメンバーにも選抜されていたチームメイトがいました。
アレッサンドロ・ネスタです。
彼は当時すでにラツィオのレギュラーメンバーでした。
しかし、この頃の財前は、そのネスタにさえプレーでボールを触らせず、周囲のラツィオの選手たちを驚愕させたのでした。
アレッサンドロ・ネスタ選手について
アレッサンドロ・ネスタと言えば、17歳でラツィオのトップチームでデビュー。
20代でラツィオのキャプテンを務め、セリエAの最優秀若手選手賞にも選ばれます。
後にACミランに移籍したネスタは、ミランの監督マッシミリアーノ・アッレグリに「イタリア史上最高のDF」と評された選手です。
そのネスタにボールを触らせなかったといわれる財前選手
当時どれほどのテクニックを持っていたことか…
この時、ネスタの脳裏には、日本からきた一人のサッカー選手のことが強烈に焼き付いたのでした。
1996(平成8)年には、財前選手は、スペイン1部リーグであるリーガ・エスパニョーラのログロニェスに移籍。
当時リーグ下位で低迷していたログロニェルでしたが、当時の監督に「うちには財前がいる。」と言わしめる存在でした。
しかし、リーグ戦の直前に悲劇が訪れます。
財前選手に訪れた不運とは?!
最初の怪我は、スペインリーグ開幕の直前に起こりました。
膝の前十字靭帯断裂
この怪我が原因となり契約は白紙となります。
もしこの怪我がなければ、
日本人初のスペインリーグの選手となっていたことでしょう。
まさにこのあと続く日本人選手海外組のパイオニアと呼ばれる存在になるはずでした。
しかし、現実は厳しい状況になっていきます。
財前選手の、ここからのサッカー人生は、しだいに影を落としていきます。
怪我から復帰して帰国。
財前選手は、ヴェルディの一員となりJリーグでプレーをすることとなります。
財前選手のいた東京ヴェルディ
彼が所属した読売クラブ(現在の東京ヴェルディ)は、企業に属さず日本サッカーリーグ(JSL)の中でも別格の存在でした。
ブラジルよりラモスを招き入れるなど、ほかの企業所属のサッカーチームとは異質のチームでした。
当時の読売クラブは、全国から技術の高い選手を集めており、テクニックではJSLの中でトップと言っても過言ではありませんでした。
地方ではモンスター級と称される選手でも、読売クラブでは平凡なレベルというのは少なくありませんでした。
まさに怪物級の選手達が集まる読売クラブの中で、財前宣之選手はさらに群を抜く存在でした。
将来日本サッカー界を担う選手だ
フル代表でエースとして活躍する選手になるのは間違いない
日本の10番をラモスから引き継ぐのは財前宣之だ。
誰もがそれを信じて疑いませんでした。
財前選手の日本でのその後の活動
かつて中田英寿さえ脇役にさせていた日本のファンタジスタ財前宣之。
しかし、この時 かつての輝きはすでに見られることはありませんでした。
怪我が治ったと思えば、また怪我。
かつてのチームメイトであった中田英寿選手が1998(平成10)年にセリエAペルージャへの移籍を発表。
かつでのU-17日本代表のチームメイト、中田英寿選手が、世界のNAKATAへと輝かしく変貌を遂げたあの頃・・・
中田選手より2年早くスペインで栄光の舞台に立つはずだった財前宣之選手・・・
イタリアで眩い光の中にいた中田選手
怪我との戦いに苦悩する日々が続く財前宣之選手
二人の運命がこの後、フル代表出場という形で交わることは無かったのでした。
その後も、財前選手は自分の居場所を探し求めます。
クロアチア1部リーグであるプルヴァ・フルヴァツカ・ノゴメトナ・リーガのリエカに移籍。
財前宣之選手とベガルタ仙台の挑戦
そして、1999(平成11)年、京都パープルサンガの監督を務めていた清水秀彦氏がJ2ベガルタ仙台の不振から脱出するために監督に就任したことを機に、財前宣之選手に声がかかりました。
J2ベガルタ仙台に移籍した財前選手はチームの中心選手として活躍します。
この頃、かつてイタリア セリエAでの留学時代の同期が来日します。
あの、アレッサンドロ・ネスタ選手です。
ネスタは財前宣之氏を探すためJ1を色々と探しあたりました。
J2のベガルタ仙台に所属していることをスタッフから聞いた時、彼が思わずこう言いました。
「まさか。彼がそんなはずはないだろう?!」
ベガルタ仙台をJ1に昇格させてみせる
監督の想いを胸に、怪我との調整をしながらチームの中心として財前宣之選手は走りました。
そして2001(平成13)年J2最終戦、京都パープルサンガ戦で試合終了直前に決勝ゴールを決めます。
後半ロスタイムぎりぎりで、
左サイドからのボールを仲間がタッチしてゴール前へつないだボール
そのボールを絶妙なボレーで財前選手は合わせました。
ボールはゴールの左側を緩やかに弧を描きながら
ゴールネットを揺らしました。
この決勝ゴールにより、ベガルタ仙台は悲願だった初J1昇格を果たしたのでした。
試合終了のホイッスルと共に、仲間たちが歓喜の渦にいる中
しずかにピッチに座った財前宣之選手。
日本サッカーの期待の選手だった
日本人初のリーガエスパニューラで世界中の注目を浴びるはずだった
全日本フル代表として日の丸を背負い、中田や中村たちと中盤を支配する司令塔になるはずだった
3度の靭帯断裂で、全盛期のプレーからは程遠い
しかし、そんな自分をあてにして声をかけてくれたベガルタ仙台と清水監督
そしてベガルタ仙台の悲願、J1への昇格
「やっと一つの結果を出した」
財前選手の胸の中には、様々な想いに溢れていたことでしょう。
しかし、その後は
2005(平成17)年、ベガルタ仙台から戦力外通告を受けて退団。
2006(平成18)年からはモンテディオ山形に移籍。
2009(平成21)年に戦力外通告。
「どこにいっても不良品扱い・・・」
3度の靭帯断裂に苦しんだ財前選手
当時を振り返りこう言います。
「人生で最も苦しい時期だった。」
財前選手のその後
2009(平成21)年、かつての仲間の縁でタイ・プレミアリーグのムアントン・ユナイテッドFCからオファーが来ます。
財前選手はすぐにタイに移動。そしてそのまま正式契約となります。
2011(平成23)年、同リーグのBECテロ・サーサナFCへ移籍。
翌年の2012(平成24)年1月19日 現役引退を発表。
35歳までサッカー選手として栄光と苦難を味わった財前選手は、その長い選手人生に区切りをつけることを自身のブログにで発表しました。
筆者からのメッセージ
財前選手を知るサッカーファンの多くは、悲運の天才と彼を称します。
類まれなる才能を持っていた彼に、
日本人初のファンタジスタ、世界のZAIZENとなることを誰もが期待していました。
結果的には、その才能が大舞台で披露されることはありませんでした。
しかし、彼は35歳までプロとしてサッカーをし続けました。
「サッカーが好きだから」
これまでの人生での苦悩・葛藤は彼にしか分からないことかもしれません。
彼は順風満帆なサッカー人生を送ることは出来ませんでした。
度重なる怪我に苦しめられました。
世間が期待していたファンタジスタとしての結果は残せませんでした。
しかし、そんな彼だからこそ気が付いたことがありました。
プロ入りから4年間、ほとんどリハビリで過ごした財前選手は当時のことを振り返りこう言います。
「当時は・・・脳は育ったが体が追い付かなかった。そこから体を鍛えなおした。」
そして、こう続けます。
「上も下も見てきたからこそ・・・説得力を持つはず。自分の魂が子供たちの胸に染みるようなスクールにしたい。」
財前選手は、いま現在仙台にてサッカースクールを運営されています。
次世代を担う選手の育成に情熱を注ぎたい
その想いで開校したサッカースクール
「ZAIZEN FOOTBALL SCHOOL」
Jクラブのジュニアチームやジュニアユースチーム入りを目指す子供たちを対象に
世界レベルを意識したサッカーの技術やマインドを伝授しているのです。
もし彼が順風満帆にスターダムへの階段を上っていたとしたら
また違った今があったのかもしれません。
今、彼は自分の思い通りにならなかったサッカー人生で
彼が学び得たものを次世代へと託して指導者として活躍されています。
彼にしか教えられない領域
彼にしか伝えられない情熱
そして彼だからこそ選択した新しい道
これまでの経験、想い
すべて未来のファンタジスタのために
そんな彼を僕はこれからも応援したいと思います。