ベトナムに、多くの医師や患者に慕われる一人の日本人眼科医が居ます。
内視鏡で世界トップレベルの眼の治療を行う医師、服部匡志(はっとりただし)先生です。
眼科医の技術がまだ乏しいベトナムで多くの人達の光を取り戻してきました。
時には、お金の無い患者の手術代も肩代わりします。
これまで一万回以上の手術を無報酬で行ってきました。
彼はその高い技術を持ちながらも、特定の病院に所属しないフリーランスの医師です。
ベトナムで眼の病気に困る人達を助けるためには、日本の病院に所属することが難しい為です。
今日は、そんな服部先生のプロフィールや経歴
彼がベトナムで医療をはじめたきっかけ
父が残した言葉を信じて彼がベトナムで患者に光を与え
その彼自身がベトナムで見つけたもうひとつの光について紹介したいと思います。
服部匡志先生のwiki風プロフィールや経歴
生まれ:1964(昭和昭和39)年
出身地:大阪府交野市(かたのし)
出身校:大阪府立四条畷(しじょうなわて)高校、 京都府立医科大学
血液型:O型
服部先生は高校時代、特別勉強が出来るタイプではありませんでした。
むしろ、赤点の教科も多く、とりわけ数学や物理といった教科は苦手でした。
そんな服部先生が医師を目指すようになったのは、ある理由があります。
服部先生が16歳の時、彼と家族に悲劇が訪れました。
父親である敏郎さんが胃がんになったのです。
ある日、父の見舞いで病院を訪れた際、彼が人生を変えるきっかけとなる出来事がありました。
ナースステーションの前を通りかかった時に聞こえてきた会話
「あの82号室のクランケ(患者)は文句ばかり言って本当にうるさいやつや。どうせもうすぐ死ぬのに。」
看護師と医師の会話を聞いてしまったのだ。
それまで服部さんは、医師というのは特別な存在だと思っていた。
病気を治すために患者のことを親身に考えてくれる神様だと信じていた服部さん。
しかし、目の当たりにした現実は、心無い医師と看護師が自分の父親のことを侮蔑するような言葉・・・
こんな医師が本当にいるなんて・・・
悔しさと憤り
こんな医師がいては、世の中の病気で苦しむ患者達は報われない
「だったら僕が良い医師になってやる。」
服部さんが医師を本気で目指すきっかけは、これだけではありませんでした。
服部さんのお父さんは、亡くなる直前に遺書を書き残していました。
まさに亡くなる前日、意識が朦朧とする中、レポート用紙に鉛筆で書いた遺書でした。
その遺書には、残す家族に向けた想いを書きつづったものでしたが、その最後には4つの言葉が記されていました。
お母ちゃんを大切にしろ。
人に負けるな。
努力しろ。
そして、最後に記された言葉
人のために生きろ。
服部さんは、亡き父親からは一度たりとも「勉強しろ」とは言われた事がありませんでした。
父親が自分に向けて説いた言葉はいつも、「人の役に立つ生き方」についてでした。
医学部を目指すと決めた服部さんは、それから猛勉強をします。
医学部を目指すといった時、高校の先生からは「こんな成績ではいけるわけがない」と笑われます。
「しかし、死ぬ気で勉強を2年すれば行けるようになる」と言われ、それから猛勉強をしました。
高校の先生から2年と言われた服部さんですが、実に4年もの浪人生活を続けました。
そしてやっとの思いで、京都府立医科大学に入学したのでした。
医大に入学した服部さん。
最初は父を胃ガンで亡くした事もあり、消化器科を目指そうとしていました。
しかし、偶然出会ったある眼科医の先生に感銘を受け、その先生から学びたいという気持ちから眼科医を目指すこととなります。
必死の努力で眼科医になった服部先生でしたが、若いころはなかなか執刀をさせてもらえる機会に恵まれませんでした。
服部先生が腕を磨いたのは、当時の眼科ではまだ手掛ける人が少なかった内視鏡を用いた眼の手術でした。
直径0.9mmの内視鏡で直接、目の奥をみながら行う手術でした。
そして懸命の努力と、患者さんを家族のように思うその姿勢で、世界トップレベルの眼科医としてその名を知られるようになっていくのでした。
服部匡志先生がベトナムで治療を始めるきっかけとなる出逢いとは?!
そんな服部先生に転機が訪れたのは、37歳の時でした。
学会で出会ったあるベトナム人医師から声をかけられます。
「ベトナムでは眼科医の技術が遅れています。どうかあなたの力で患者に光を与えてください。」
しかし、日本の病院に勤めながら行うには難しすぎる依頼でした。
ベトナムには自分を必要としている人がたくさんいる。
しかし、そのためには今自分が手にしているものを失わなければ出来ない。
「それでも、いくべきなのか・・・」
服部先生は、自問自答します。
そんな服部先生の背中を最後に押したのは、亡き父が残した最後の言葉でした。
「人の役に立ちなさい」
服部先生は、当時月給200万近くを得ていた病院を辞めます。
こうして服部先生は海を渡りベトナムに行くことにしたのでした。
ベトナムで服部先生が直面した闇と現実
しかし、ベトナムで服部先生は現実に直面します。
ベトナムでは、眼科医がとても少なく、国全体でも僅か千人ほどしか居ないため、圧倒的に医師の数が不足していたのです。
「これでは治療がおいつくわけがない・・・」
さらに問題がありました。
社会主義のベトナムでは、医師といえども治療に向き合う医師たちの意識が日本と全く違っていたのでした。
たとえ患者の診察が終わっていなくても、定刻になると帰ってしまう医師も少なくなかったのです。
当時の状況を振り返り、服部先生はこう説明しています。
「たくさんの患者が居て、片目が失明しているのも珍しくなく、さらにもう片方の目も緊急性を要する。そんな患者さんがたくさん溢れていたんです。」
他にも日本では想定できないような患者さんたちの事情というものが存在していました。
ある時、6歳の男の子の患者さんが病院を訪れました。
診察をして手術が必要という判断を下した服部先生。
そののち、病院のスタッフが手術をするために、掛る費用を説明しました。
服部先生は、当然手術をするものだと思い準備をしようとしていたら、気がつくとその患者が帰ってしまっていたのでした。
その男の子の病状はとても深刻でした。
すぐに手術をしなければ失明する可能性が非常に高かったのです。
服部先生は、急いで男の子の後を追いました。
しかし、見つける事が出来ませんでした。
「手術代が払えず帰ってしまったと、なんで言ってくれへんかったんや・・・」
服部先生は、病院スタッフに問い詰めます。
「その男の子は、そのまま帰ってしもたら、一生眼が見えへんままやないか」
スタッフに悔しい思いをぶつけると同時に、服部先生は自分自身をも責めました。
手術の費用が払えない・・・
だから子供の手術も諦める。
ベトナムでは決して珍しいことではありません。
その厳しい現実を服部先生は目の当たりにしたのでした。
服部先生がベトナムの活動を通じて見つけた光とは?!
父の遺した言葉
「人の役に立つ」
そんな目的でベトナムに来た服部先生
しかしそれをベトナムで実現するためには、
「患者を診てあげる」という意識を改める必要性があることに気付きました。
そしてそれから服部先生は、患者やその家族にかける言葉をこう変えました。
「あなたを診させてください」
この体験の後
貧しい患者の手術代を肩代わりすることを服部先生は決断します。
貧しい患者の為に、病院からの報酬を受け取らないことで、無償で手術をすることにしたのでした。
服部先生が直面したベトナムの闇、医療の現場での現実
その中で導き出した応え
無償での治療や手術
人からすれば、服部先生は人を助ける活動をしていると誰もが思うでしょう。
しかし、服部先生はこう言います。
僕が人を助けているように見えるかもしれない・・・
けれども、僕の魂も助けられているんです。
服部先生が、ベトナムで光を失った多くの患者に光を取り戻し
そして、服部先生自身もベトナムで光を見つけたのでした。
ベトナムでの活動を始めた当初、周囲からは「そんな実入りの無いことを何故彼はするんだ?」と懐疑的な目で見る人達も少なくありませんでした。
しかし、そんな声に惑わされることなく、ただ「人の役に立つ」という目標に向かって活動を続けてきた服部先生。
いまでは、そんな彼を応援する人達が増えてきました。
服部先生の活動を聞きつけた大学時代の恩師が、NPOを立ち上げ彼の活動を支援してくれるようになったのです。
これに始まり、徐々に協力してくれる人の輪が広がっていきます。
そしてその輪は、ベトナムでも広がっています。
引用元:http://www.pc-mv.jp/event/1201xmasparty/charity.html
彼は、この活動を続ける為に、
月の半分を日本の病院でフリーの医師として働き
残りの半分をベトナムでの活動に費やしています。
世界トップレベルの技術を求める服部先生には、日本各地の病院から依頼が来ます。
それで得た報酬と、周囲の協力でベトナムの無償治療を行っています。
日本で眼科医師として働けば、数千万の報酬を得る事は確実と言われる服部先生
しかし、彼は日本で得た報酬を手弁当で行うボランティアに費やす。
だから彼の実質の年収は500万円程なのです。
しかし服部先生はこう言います。
僕にとってベトナムでの活動、ボランティアというものは、旅と同じなんです。
旅という名のボランティアで、中にどんどん入り込んでいくと
日本人の僕とベトナム人が心と心が通じ合うんですよ。
僕はそういう名の旅を味わせてもらっているんですよ。
お金ではない。
お金では得る事が出来ない事がたくさんある。
僕の旅が終わるときは、僕が死ぬ時。
それまで僕の旅に終わりは来ないのです。
服部先生の功績
2006年 第16回宮沢賢治イーハトーブ賞受賞
2007年 ベトナム保健省より人民保健勲章を受章
2008年 全国日本学士会よりアカデミア賞、世界平和研究所より中曽根康弘賞奨励賞を受賞
2012年 国際社会で顕著な活動を行い世界で『日本』の発信に貢献した業績をもとに、外国人プレス関係者により構成される、世界で活躍し『日本』を発信する日本人プロジェクトより、内閣府から世界で活躍し『日本』を発信する日本人の一人に選ばれる
筆者から
人から賞賛される人も、そうではない人も
すべての人には価値があり
人は誰しも、生まれてきた意味がある
服部先生が言う、「旅」
服部先生がベトナムで見つけた輝く場所
光を持ちこの世に生まれ
そして、その光を輝かせる
旅を通じて、自分自身が輝く場所を見つけ
そして周囲を照らすように自分自身が輝く
自分自身がもつ光を輝かせる場所を
人生という旅を通じて見つける
人が生まれてきた意味とはそういう事なのかもしれない。
少なくとも、僕には思えてならないのです。