俳優 香川照之(かがわてるゆき)
彼には別の顔がある。
歌舞伎役者 九代目市川中車(くだいめいちかわちゅうしゃ)
香川は46歳の時、途方もない挑戦をした。
俳優であるとは言え、歌舞伎に関しては全くの素人が
46歳にして歌舞伎に挑むという前代未聞の挑戦である。
『自分は何のために生まれ
そして、何のために生きているのか?』
40年以上もの長い間、香川はずっと考え続けてきた。
香川の実父は、澤瀉屋(おもだかや)を率いる棟梁でもある三代目市川猿之助(えんのすけ)。(※二代目市川猿翁(いちかわえんおう)を襲名)
香川の父である市川猿翁(当時:猿之助)は、香川が幼少の時に当時の妻である浜木綿子(はまゆうこ)とまだ幼い香川を残して家を出てしまう。
それは、初恋の相手であった藤間紫(ふじまむらさき)と生きることを選んだ猿之助だが、ほかにも理由があった。
香川の母である浜木綿子は、それ以降歌舞伎の世界とも縁を切る。
母は息子の照之に芸の世界に進んでほしくないと考えた。そして、勉学に励むように香川を育てられ、照之自身は東大に進んだ。
しかし、香川自身がずっと心の奥にしまっていた想いを断ち切ることは出来なかった。
両親それぞれの想いの狭間で、悩み、葛藤し、心の闇と向きあい自らその闇と向き合って生きた俳優 香川照之、別の名を市川中車。
今日は、そんな彼の経歴、プロフィール、そして40年以上経て手にした家族の絆について紹介したいと思います。
香川照之のプロフィールと経歴
生年月日:1965(昭和40)年12月7日
出身地:東京
身長:171cm
血液型:AB型
家族:母は浜木綿子(はまゆうこ)、元宝塚歌劇団雪組の女優
父は二代目市川猿翁(いちかわえんおう)※三代目猿之助(えんのすけ)
長男は政明(市川團子[だんこ]を襲名)
長女の名前は未公表
妻は香川智子 元日本航空のCA
学歴:東京大学文学部社会心理学科卒
屋号:澤瀉屋(おもだかや)
澤瀉屋 定紋
俳優の香川照之を知る人は多い。
龍馬伝、半沢直樹など数々の作品で怪演を披露し多くの支持を集めている。
しかし、そんな香川にしても46歳にして、未知の世界「歌舞伎」に飛び込む事が難しいことは容易に想像できる。
敢えてその苦難の道を進もうと決断した香川の胸中にあったもの
母浜木綿子と息子照之を捨てた父市川猿之助
先に述べたように、香川の父猿之助は、まだ幼い自分と母を置いて、家を出て行った。
その後、父との断絶は40年にも及んだ。
『父とはいったい、どんな存在なのか・・・』
その想いに、ずっと捉われてきた香川。
本当は心の中にあったかいものがある人が、無い振りをしているのか・・・
それとも・・・
どっちなんだろう。
通常、5、6歳で初舞台を踏むといわれる歌舞伎の世界。
46歳にて歌舞伎に挑む香川にとっては、何もかもが0からのスタートだった。
『素人に歌舞伎など出来るはずがない。』
多くの人が心無い言葉を口にした。
歌舞伎は、型と呼ばれる家の芸が代々父から子へと受け継がれる。
しかし、香川にその機会は無かった。
香川にとって、父の不在が彼の人生に大きな影を落としてきた。
父と母が離婚後は、母親との生活だったが、母は照之を養うため女優の仕事で家をあける事が多かった。
そのせいで、香川はずっと長い間、自分の殻に閉じこもり、誰にも心を開くことが出来ない日々を送っていた。
香川は当時の心模様をこういう言葉で表現しています。
『孤独はもちろんだけど、友達もいないし、いつも本心じゃなく嘘をついていた。
僕は世界が終わればいいと思っていた・・・ずっと。』
『コンプレックスというか、おかしな怒りが常に僕の心の中にあった。』
だが、香川照之は、東京大学卒業後
母の想いとは裏腹に役者の道を志す。
香川自身の心の中の何かに導かれるように・・・
香川照之の父、三代目猿之助(猿翁)の経歴
市川猿之助の名跡、それは140年に渡り代々その血筋に受け継がれてきた。
明治の初期、初代市川猿之助(二代目段四郎) が、市川宗家から独立し、澤瀉屋を門閥にのし上げた。
その長男が二代目市川猿之助(初代猿翁)を襲名。
そして、その孫にあたるのが、香川の父、三代目市川猿之助である。
三代目猿之助は、26歳で宝塚歌劇団出身の女優浜木綿子と結婚。
その長男として生まれたのが香川照之だった。
しかし、まもなく離婚。
これにより、継承する血筋は途絶えた。
3代目が猿之助の名跡を襲名したのは、23歳の時。
しかし、その直後、猿之助は悲運に見舞われる。
祖父の二代目猿翁と、父である段四郎を相次いで病気で亡くすのである。
後ろ盾を失った三代目は、歌舞伎界の孤児となった。
役が付かない・・・
でも、ほかの一門の傘下に下ることを三代目は潔しとせず・・・
そして、香川の父、三代目猿之助は一人独自の道を模索し続けた。
妻の浜木綿子や息子照之と決別したのは、ちょうどこの頃のことだった。
『家庭の幸福や団欒も欲しい。役者としても極めたい。
などというのは、私には所詮無理で
両道を追えば追うほど、中途半端になるような気がする。
求道者の心を忘れてしまいがちである。』
当時のインタビューで猿之助は、このような言葉でその心境を表していた。
そして家族と決別した三代目猿之助は、芸の道をひたすら邁進し、
歌舞伎界の革命児となっていくのであった。
江戸の時代に観衆を惹きつけ、歌舞伎のだいご味とされた早変わりや宙乗り、所謂ケレンと呼ばれる演出を復活。
しかし、サーカス紛いだと歌舞伎関係者からは厳しく酷評される。
それでも自分の信じる道を突き進み、「スーパー歌舞伎」と呼ばれる新しい形を確立した。
歌舞伎界の孤児と言われ、後ろ盾を失った三代目猿之助は、険しい芸の道を命をかけて切り開いて来たのでした。
香川照之と父三代目猿之助の確執 それぞれの想い、すれ違い・・・
25歳の冬、香川照之はずっと会っていない父猿之助を訪ねて公演先の沼津を訪れたことがありました。
ずっと父が居ない人生を歩んできた香川にとって、父という存在がどういうものなのかをどうしても確かめたかったのです。
しかし、その時父の猿之助が息子の照之に対して叱責の言葉を発します。
『大事な公演の前に、いきなり訪ねてくるなど、役者としての配慮が足りません。』
そして続けてこう言います。
『すなわち 私が家庭と決別した瞬間から、私は蘇生したのです。
だから、今の僕とあなたとは何の関わりもない。
あなたは息子ではありません。
したがって僕はあなたの父でもない。』
血脈を絶ち、ひたすら芸の道を突き進んできた父、猿之助。
己の孤独と向き合い、周囲から揶揄されながらも、道を切り開いて来た父猿之助。
香川は幼少から、ずっと父の面影を胸に抱いて来た。
母と自分を捨てて家をでた父。
本当は、どんな人なのか。
父という存在は、どういうものなのか。
それを確かめたい一心で、父に会いに行った。
しかし返ってきた言葉は、自分が期待していたものとはまったく違うものでした。
猿之助の言葉は、これまでずっと心に闇を抱えてきた香川にとって、さらなる苦悩をもたらすものでした。
父という存在が無くても、生きていけるように心のどこかに蓋をする・・・
そんなマイナスの想いがどんどん積み重なっていった香川照之。
しかし、それでも心の中で、こういう風にも思っていました。
『本当は心に温かいものがある人が、ないふりをしているのか・・・』
『いったいどっちなんだろう・・・』
血脈を絶ち、ひたすら芸の道を進んできた猿之助だからこそ出てきた父の言葉。
だが、その言葉によって、香川は人生の長い期間におよび疑問と不安を抱え続けてしまうのでした。
時が満ち互いが惹かれあう香川照之と父三代目猿之助 すれ違いから交錯へ
2003年11月17日 博多座、猿之助は『西太后』の公演中に体調不良を訴えた。
初期の脳梗塞と診断された。
しかし、実際はパーキンソン症候群を発症したのでした。
それ以降、舞台に立つことから、演出の指導側に移り活動を続けてきた。
固まった筋肉をほぐす為、苦しいリハビリをうけながらの活動です。
2011年9月、二代目市川亀次郎が名跡市川猿之助を襲名することが決まる。
二代目市川亀次郎は、猿之助の弟である市川段四郎の一人息子。
つまり猿之助の甥にあたる。
このことがきっかけとなり、香川照之と父三代目猿之助が公の場に共に姿を現すこととなったのでした。
その影には藤間紫の尽力もあった。
猿之助の後妻である藤間紫は、意地を張り続ける猿之助を諭し、息子の照之に自分の正直な想いを伝えるように訴え続けたのでした。
香川の父、猿之助が率いる歌舞伎の一門、澤瀉屋。
その棟梁である猿之助
一度は引き裂かれながらも、互いに惹かれあう父と子。
そして香川照之は46歳の時、歌舞伎の世界に身を投じることに繋がるのでした。
実は、父猿之助は息子の照之が訪ねてきたあの日の事を忘れたことはありませんでした。
『生きるも死ぬも身一つで
僕は敢えて一人でやってきました。
だから照之も、役者の道を貫きたいと思うなら
私の事を父と思うな
何ものにも耐える
独立自尊の精神で行きなさいと
僕としては、ごく当然のことを言ったつもりだったのです。』
今、40年以上を経て向き合う父と子。
長い断絶の期間を経て惹かれあう二人。
父、猿之助は言います。
『何か大きな力に導かれているような気がしています。
でも、体も言葉も満足にいかないのが私は非常に悔しい・・・悔しい。
歌舞伎の「歌」「型」「心」など、できる限り教えてやりたい
身をもって教えてやりたい・・・』
ある日、父猿之助が指導をつけている稽古場に、元妻である浜木綿子が訪れた。
自分たちを捨てて出て行った猿之助に会いに。
お互いに涙を滲ませながらの約45年ぶりの対話でした。
歌舞伎の世界に飛び込んだ息子と孫のことを託すことを自分の口から伝えるために。
猿之助は涙ながらに「浜さん、ありがとう。恩讐の彼方に・・・ありがとう。」と前妻の浜木綿子に対して感謝の意を表したのでした。
抱え続けてきた香川照之の自分自身への問い
自分は何のために生まれ・・・何のために生きているのか・・・
歌舞伎の家に生まれながらも、歌舞伎に縁なく育った。
誰にも心を許さず、孤独の中に生きてきた。
何のために生きているのか・・・その答えを求めて生き続けてきた。
いつしか、誰もが認める役者となった。
しかし、それでも満たされない何かがある。
結婚し、息子が生まれた。
父となった。
息子の政明が成長するにつれ次第にある想いが大きくなっていった。
それは、自分が歌舞伎をやっていないことに対する負い目だった。
「お父さん、なんで歌舞伎をやっていないの?」
あるとき、息子から投げかけられた言葉。
香川は想った。
「じいちゃんと、ばあちゃんが別れたからだよ。」なんていうように人のせいには出来ない。
猿之助の名跡は140年続く。
政明が生まれ、この船に乗らないわけにはいかない。
香川にとってのターニングポイントだった。
2012年3月 新橋演舞場 市川中車の襲名公演
演目は『小栗栖の長兵衛』
初舞台は完売。
一番の見せ場では、「澤瀉屋」や「中車」と出来栄えを認める掛け声が。
舞台が終わった後、市川中車は父、猿之助にお礼を言う。
「ありがとう。お父さん。」
そう言いながら父の手を握る中車。
そして何も言わず微笑む父、猿之助。
その日の晩、市川中車が電話でこういいます。
「こうして初めて父の舞台に上がることが出来ました。本当にありがとうございました。夢が叶いました。本当にありがとう・・・ありがとう。」
そう言うと感極まって泣く市川中車。
三代目猿之助が言う。
『喜びも 哀しみも 苦しみも 全て
ここには 真実がある』
また、香川自身
人生で初めて父という存在を
間近に肌で感じていた。
自分にとって、
人生の意味・・・本当の意味
生涯かけて精進する。
手を抜かないことの本質
それを父は間近で見せてくれた。
やっとわかった・・・
自分がなんのために生まれ
何のために生きていくのかを
役者という修羅の道
それこそが生きる道
二人の道は続いていく
ゆるぎない覚悟をもって
歌舞伎役者 九代目市川中車
俳優 香川照之