山中伸弥京都大学iPS細胞研究所所長
2012年のノーベル生理学・医学賞を受賞
医師の家系ではなかったが、徳田虎雄の著書「生命だけは平等だ」との出会いをきっかけに医師を目指す。
しかし、医師としての適性が乏しいこと、から研究者としての道へ
研究では、すぐに役に立つ研究をしないと、周囲からジャマナカと揶揄されました。
世界に認められた世紀の発見iPS細胞
しかし、彼がそこに至るまでには、苦難の道があったのです。
何度も訪れる挫折、しかしそこから這い上がり人生を巻き返してノーベル賞をつかみ取りました。
今日は、そんな山中伸弥教授の経歴やプロフィール、そして彼の半生
そして彼がiPS細胞発見に至るまでに出会った希少難病を患うある少年との約束
さらに、山中教授が彼自身の人生の苦難から生み出された、
彼の名言も紹介したいと思います。
山中伸弥教授の経歴やプロフィール
氏名:山中 伸弥(やまなかしんや)
生年月日:1962年9月4日
身長:176cm
体重:70kg
血液型:B型
出身:大阪府東大阪市
略歴:大阪教育大付属天王寺校
出典:http://yumenakama08.cocolog-nifty.com/
神戸大学医学部
(神戸大学医学部卒業後、国立大阪病院整形外科で臨床研修医)
大阪市立大学大学院医学研究科 薬理学教室
アメリカカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所に留学
マウスのES細胞(胚性幹細胞)の研究
奈良先端科学技術大学院 助教授
現在の所属:京都大学iPS細胞研究所(CiRA)所長
山中教授がiPS細胞を発見するまでの軌跡
山中教授は、子供時代は大阪府の東大阪市で育ちました。
小学3年生の時、奈良県奈良市に家族で引越しをします。
山中さんの家族は、両親と7歳年上のお姉さん、そして山中教授の4人家族。
お父さんの山中章三郎は工学部の出身
東大阪市といえば、町工場や中小企業のひしめく街
そこで父である章三郎さんはミシンの部品工場を営んでいました。
章三郎さんは、幼いころから息子である山中伸弥さんを見て
「おまえには事業の素質がない」と言ってました。
そして父の目線で、別の道を探したほうが良いとアドバイスしていたのです。
山中教授の学生時代のあだなは「負傷病棟」
中学の柔道部では骨折を10回したそうです。
高校時代に山中教授は、ある一冊の本と出合います。
高校生の頃、自分の将来を迷っていた山中教授
医師になりたいという願望はありながらも、本当に進むべき道なのかどうか決めかねていました。
そんな時期、徳州会の理事長であり、医師である徳田虎雄氏の著書
『生命(いのち)だけは平等だ』を手にした山中氏。
その本を読み、深い感銘を受けたことが、山中氏が医師への道を志すと決断するきっかけとなったのでした。
後年、山中教授がiPS細胞を発見し、京都大学が研究所(CiRA)を開設したのち
徳田虎雄氏がここを訪れます。
その際、研究のプレゼンテーションに訪れた徳田虎雄氏と面会した山中教授は、感涙にむせびながら対面したそうです。
高校時代、骨折ばかりしていた山中氏は、神戸大学医学部に進学
卒業後は高校時代に何度もお世話になった整形外科の道を選択しました。
国立大阪病院の整形外科臨床医となった山中氏
しかし、注射は苦手
手術も自身が無い
10分程度で通常終わる手術に、2時間もかかる
同僚たちは、彼のことを「山中」ではなく、「じゃまなか」と言って馬鹿にしたそうです。
医師を目指して整形外科医の道にすすんだが、俺には医師はむいていない・・・
挫折と絶望に打ちのめされた山中氏
ちょうどそのころ、重症のリウマチや、全身の関節が変形する難病を見た山中氏
手術は苦手でも、難病の研究なら向いているのではないだろうか・・・
自分は若いころから柔道やラグビーで何度も怪我をしてきた。
僕の怪我はやがて治る怪我ばかりだったが
中には脊髄を損傷し一生半身不随となった人もいた。
そんな人達はどんなに優秀な外科医でもいまは不可能だ。
それなら僕は基礎医学の研究の道に進むしかない。
そう考えた山中氏は大阪市立大学大学院に入学します。
大学院では、薬理学教室で研究を重ね、医学博士の学位を取得します。
そうするなか、科学雑誌の公募でアメリカカリフォルニア大学サンフランシスコ校グラッドストーン研究所に研究者として採用が決まり渡米することになりました。
そこで出会ったトーマス・イネラリティ先生の指導のもと一生懸命研究をします。
そして山中教授は、このアメリカ留学で大事なものと出会います。
ES細胞です。
ES細胞は万能細胞とも言われています。
1981年にイギリスとアメリカの研究者が発見しました。
ネズミの受精卵を体外に取り出し培養した結果、どの細胞にも変化が可能で、
しかも無限に増やすことができることに成功しました。
出典:http://www.skip.med.keio.ac.jp/
このES細胞は、山中教授のヒトiPS細胞の研究においても、とても重要な存在でした。
ES細胞はマウスの受精卵から特殊な条件で培養することで、
筋肉、血液、皮膚など、身体のあらゆる部位に変化させることができるのです。
さらにES細胞の性質として、ほぼ無限に増やせるという特徴があります。
科学者たちが実験をする上で、マウスはとても重要です。
医学研究者達にとって実験動物として、マウスの細胞を大量に得られることはとても有益な発見だったのです。
そして、山中教授はこのES細胞を軸にあらゆる万能細胞の研究をするためにアメリカに来たのでした。
しかし留学から3年が経過した頃、山中教授の家庭に異変が生じました。
山中教授の奥さんとお子さんが急遽日本に帰国!山中教授がうつ病に?!
留学して3年が経過した頃、山中家に異変が生じます。
それは子供の就学に関する問題でした。
お子さんの小学校入学の時期を迎え、奥様の知佳さんは子供を日本の小学校に入学させたいと考えていました。
山中教授は、そのままアメリカで研究を家族と一緒に暮らしながら続けたいと考えていましたが、奥様はどうしてもアメリカの小学校に入学させることを受け入れられなかったのです。
話し合いの結果、奥様はお子様2人を連れて日本に帰国することとなってしまいました。
若かりし頃の山中教授(左)と奥様知佳夫人(左)
※二人は同じ高校の同級生でした
山中教授は一人アメリカに残り、研究を続けていたのですが
半年も経過したころ、どうしても寂しくなり
日本に帰国をしたのでした。
しかし、日本に帰国した山中教授は、さらなる困難に直面します。
帰国後、大阪市立大学医学部薬理学教室の助手となります。
しかし、その研究室はアメリカの研究室とは全く違います。
お金もない
討論も無い
山中教授は、ひたすら実験用のネズミの管理に追われます。
そして その環境の中で周囲が山中教授にむけて発した言葉にも
山中教授は傷つきました。
研究者は役に立つかわからないものを研究すべきだし、科学研究費助成事業(科研費)のように、海のものとも山のものともつかない研究を支援する仕組みが、国全体の技術力を維持するうえで非常に大切です。
引用元:http://meigen.keiziban-jp.com/
その研究がマネタイズできそうなものかどうか?
研究そのものが将来的に収益に結びつくものかどうかという部分を重要視したとき、
当時の山中教授が携わっていた研究は、そうは見なされにくいものでした。
そのため、周囲からは「ネズミの細胞の研究より、人間の病気の研究をしたほうがいいんじゃないの??」と言われたのです。
ついたあだ名が「やまチュウ」
自分の研究を周囲が理解してくれない。
このことで当時の山中教授は苦しむのでした。
もしかしたら、手術が下手でも研修医からやりなおしたほうが良いのだろうか・・・
次第に自分を追い込む山中教授。
とうとう、うつになってしまったのです。
「もっと医学に関係することをやったほうがいいんちゃうか」と言われ、自分でも「何か人の役に立っているのかな」と自信がなくなっていきました。半分うつ状態になって朝も起きられなくなり、研究をやめる直前までいきました
引用元:http://meigen.keiziban-jp.com/
まだこのころの山中教授は、アメリカでES細胞の研究を積んでいたとはいえども、まだ無名の研究者です。
有名な実績もありませんでした。
あきらめて研修医に戻る前に、もういちどだけ・・・
山中教授は当時募集をされていた奈良先端科学技術大学の助教授に最後の望みをかけて応募しました。
その応募を審査した奈良先端科学技術大学の審査員たちは
山中教授の研究を「あまりにも研究テーマが荒唐無稽すぎる」として
採用を見送ろうとします。
しかし、審査委員長の岸本忠三(きしもとただみつ)大阪大学総長だけがこう言いました。
「細胞の初期化・・・うまくいくはずがないと思った。しかし、若い研究者の迫力に関心して採用した」
岸本忠三さんは、世界的な免疫学の権威です。
彼の後押しもあり、山中教授は奈良先端科学技術大学に採用されたのです。
面接の最後、やぶれかぶれ正直に、「ぼくは薬理のことはなにもわかりません。でも、研究したいんです! 通してください!」って声を張ったんです。だいぶ後になってこのときの面接の先生から「あのとき叫ばへんかったら落としてたよ」といわれました
引用元: http://meigen.keiziban-jp.com/
さて、研究室を与えられた山中教授にはまだ課題がありました。
お金もない。実績もない。人気も無い。
そして研究室には教授も居ない。
助教授で採用された山中さんは、その研究室では一人でした。
自分の研究室に、大学院生が参加してくれなかったら、この研究室も生き残れない。
当時20数個あった研究室。
入学してくる大学院生たちは、それぞれ好きな研究室に所属していきます。
人気の無い研究室には、当然だれも入ってきてくれません。
「さぁ困ったぞ・・・とにかく僕の研究に興味をもってもらわなければ・・・」
ES細胞は、受精卵から胚をとりだし万能細胞をつくるメカニズムです。
しかし、人間に応用する場合、人間の受精卵を用いる必要があるため倫理上の問題がありました。
山中教授が掲げたビジョンと、iPS細胞の研究を支えた3人とは?!
「受精卵ではなく、皮膚や血液の細胞などから、万能細胞を生みだす研究」
生き物の細胞は、もとをただせば受精卵。
この受精卵から色々な遺伝子の情報を読み取り、多種多様な細胞へと変化していきます。
それまでの科学の常識
「何度も分裂を繰り返し成熟した細胞は、もう元には戻らない」
どの教科書にも常識として書かれていました。
この常識を大きく覆す研究
『すでに変化した細胞も、おそらく変化前にもどす因子があり、そのスイッチを押すことで元の状態に戻すことができれば、万能細胞に変化するのではないか?』
これが山中教授の仮説・研究テーマでした。
実際、筆者の僕のような素人が聞いても、それがいかに困難で、うまくいく可能性が低そうなものか分かってしまう。
そんな研究テーマを山中教授は真剣に追い求めていたのでした。
学生さんたちに向けて、この研究をプレゼンしたところ、
3人の学生が幸いにも入ってきてくれました。
この3人が山中教授の元で研究に勤しんだのです。
徳澤佳美さん
高橋和利さん
一阪朋子さん
3人の懸命の努力により、20年は最低かかるであろうと思った研究が、
わずか6年で万能細胞に変化させるスイッチを4つ見つける事ができたのです。
こうして受精卵を用いずに万能細胞を作り出すことに成功したのでした。
研究をやめかけた時、奈良先端科学技術大学院大に拾ってもらい、一度死にかけたんだから何か面白い難しいことをやろうと思った。それも良かった。僕の大胆な思いつきにもかかわらず、研究室の人たちが本当に一生懸命実験をしてくれた。それぞれがたまたま1カ所でクロスした。それがなかったらiPS細胞はいまだに、少なくとも僕のところではできていないと思います。
引用元:http://meigen.keiziban-jp.com/
そして、この万能細胞をiPS細胞と名付けたのです。
ネーミングの由来はiPodでした。
しゃれたネーミングにしないと、海外で発表したのちに、欧米の研究者が別のしゃれたネーミングを考えてしまい、いつのまにか別の名前が一般的に知れ渡る。
せっかく自分たちが見つけたものだから、自分たちのネーミングを普及したい。
そこで思いついたのが、当時人気のあったiPodを真似たネーミングでした。
難病の人達の希望の光 iPS細胞
iPS細胞がなぜ重要視されているか?
それは、すでにある細胞から万能細胞を生みだすことが出来るからです。
例えば、身体の一部を欠損した人も、ほんの数ミリリットルの血液から組織を培養すれば、元通りに出来ます(理論上)
目の網膜の再生移植は、すでに成功しています。
また、原因が解明されていない難病の患者の身体の組織を一部取り出し
そこからiPS細胞を作り出します。
さまざまな薬に試験を、iPS細胞を用いることができれば、
被験者の身体の安全性や副作用を心配することなく行う事が出来ます。
しかも、元の細胞が、その患者由来なので、どの薬がその患者にもっとも効果があるのかも確かめる事が容易になるのです。
とくに難病とよばれるものは、被験者そのものの数も少なく
薬の研究・開発にも時間がかかります。
山中教授達が発見したiPS細胞は、そうした壁を打破できる希望の光なのです。
科学者として成功するためには「VW(ビジョン&ワークハード)」が大事だと恩師から教わりました。感謝したい人を挙げたら、それだけで何冊も本が書ける。
研究というのはアイデアひとつ、努力で色々なものが生み出せる。
日本は天然資源が限られている現実があるが、研究成果は無限に生み出せる。
それが国の非常に大きな力にもなるし、病気で苦しんでおられる方の役にも立つ。
一人でも多くの方が研究に参加してほしい。
そのような人が安心して研究できるような環境を、私たちがさらにつくっていきたい。
それに微力ながら貢献したい
引用元:http://meigen.keiziban-jp.com/