元プロ野球選手、山本昌広(やまもとまさひろ)選手、通称山本昌(やまもとまさ)選手を御存知ですか? ※以下(山本昌と略)
1983年のドラフトで、中日ドラゴンズから5位指名され、プロ入り。
しかし、周囲の圧倒的な実力の前に当初は力を発揮できず、球団からアメリカマイナーリーグへの野球留学を言い渡されます。
ある出逢いをきっかけに隠れていた力を発揮
50歳まで32年もの長きにわたり現役を続けた名投手。
試合の日、家を出るときに必ず手を合わせる玄関の写真。
彼の人生を変えるきっかけとなった恩師アイク生原氏【本名:生原昭宏(いくはらあきひろ)】の写真です。
現在は、彼の人生から得た経験を講演したり、野球解説などの彼の野球を通じた人生の教訓を伝える活動をしています。
今日はそんな山本昌広元プロ野球選手と、恩師アイク生原氏について書こうと思います。
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山本昌広氏のプロフ
生年月日:1965年8月11日
出身:東京都大田区→神奈川県茅ケ崎市
出身高校:日大藤沢高校
身長:公称186cm (実際は188cm)
体重:公称87kg (実際は98kg)
山本昌選手ドジャース留学の経緯
1984年にドラフト5位で中日ドラゴンズに指名されプロ野球選手となった山本昌選手ですが、入団してからの4年間で一軍の登板はわずか4試合。しかも勝利は一度もありませんでした。
当時、中日の監督をしていた星野仙一は言います。
「コントロールは悪いし、球速は130kmそこそこ。がっかりだ。」
「この手足の長い投手はアメリカの指導のほうが合うのではないだろうか」
しかし、それは実質的には戦力外通告に首の皮一枚つながった状態でした。
中日は、星野監督の言葉もあり、山本昌のアメリカ留学を決めます。
厳しいプロの世界。
自分は場違いなところに来てしまった。
この世界では結果がすべて。
ドジャース傘下の1Aマイナーリーグ ベロビーチ・ドジャースに所属が決まった山本昌は、フロリダ・ステートリーグで試合をすることになります。
山本昌、ドジャース時代にであった恩師アイク生原氏
山本昌は、そこで一人の人物と出会います。
アイク生原氏、本名は生原昭宏。
日本で生まれ、アメリカに渡りドジャースの道具係から、オーナー補佐兼国際担当になった男でした。
留学生の父親的存在で、当時の山本昌に時として厳しく、時には優しく接しました。
留学先は、ドジャーズの1A。日本でいえば、4軍にあたる。
1チームはたったの25人。
中日から、アメリカ留学を言い渡された時、山本昌の内心は腐りかけていました。
半年で150試合戦う環境
自分に野球の情熱を絶えず投げかけてくれるアイク生原さんの存在
当時22歳の若い山本にとって、そんな環境とアイク生原さんの熱心な指導が少しずつ彼の心に響きはじめます。
これほど野球が好きな人がいるのか・・・
山本昌が、そう感じるほどアイク生原氏は、とにかく野球に対して向き合う姿勢は一生懸命。
そのアイク生原氏が、当時の山本昌に何度もいった言葉
「なにか一個覚えろ」
のちに山本昌の代名詞となる「スクリューボール」
それを覚えたのも、このアメリカ留学でした。
チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが試合前のキャッチボールで見せたスクリューボール。
山本昌は、彼からその投げ方を教わります。
後日試しに投げてみると余りに曲がるスクリューボール。
その日の試合で投げてみると決め球として通用しました。
登板の度に、スクリューボールを使い結果をだしていく山本昌。
結果的に1Aのオールスターゲームに加わることになります。
複数の球団からスカウトが来て、メジャー球団の公式戦選手としての打診も出てくるのでした。
初めは1年間の留学の予定でしたが、アメリカでの山本昌の活躍ぶりをビデオで見た星野監督は急遽日本に呼び戻すことを決定。
日本を出るときは、ほぼ戦力外の評価だった山本昌は、アイク生原氏と過ごした半年間で別人へと生まれ変わります。
(1988年ドジャース1A 成績 18勝7敗 防御率2.00)
なにより、野球に対する考え方が、全く変わったのでした。
帰国後、生まれ変わった山本昌は、日本を代表する選手へと成長するのでした。
アメリカで、恩師アイク生原氏と出会っていなければ、今の自分は無い。
アイクさんの為にも、最高の結果を出して報告をしたい。
そんな想いで山本昌は、結果を出し続けます。
そして山本昌は、1993年に最多勝を取るまでになったのでした。
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山本昌選手アイク生原氏に見せれなかった200勝や数々の記録!
しかし、その姿をアイクさんに見てもらうことは出来ませんでした。
アイク生原氏は、山本昌が輝かしい成績を残すわずか1年前、
1992年10月26日に病気のため55歳の若さで帰らぬ人となったのでした。
葬儀の場で山本昌はアイク氏の棺の前で泣き崩れました。
それからの山本昌は記録をつみあげる度に、恩師アイクさんの眠るアメリカに報告にいきました。
最多勝3回(’93、’94、’97)
最優秀防御率(’93)
沢村賞(’94)
アイク生原氏の妻生原喜美子さんは、当時を振り返りながら、こう語ります。
『アイクは彼にかけたんではないでしょうか?自分の夢を。
アイクがアメリカに来たのは、指導者になりたかったから。
ドジャースにいながら、山本昌さんがアイクにそのチャンスを与えてくれたんだと主人は思っていたんだと思います。』
積み上げた勝ち星
通算32年の生涯成績
581試合219勝165敗5セーブ 防御率3.45
塗り替えた記録
最年長勝利 49歳0カ月
最年長完封 45歳0カ月
最年長ノーヒットノーラン 41歳1カ月
長くプロとして活躍してきた山本昌の心の中にいつもあった気持ち。
それは、「アイクさんの教え子としての遺志を継ぎたい」
山本昌は、敬愛する恩師アイクさんの教え子として恥ずかしくない行動をいつも心掛けて野球に向き合ってきました。
山本昌広氏の玄関には、アイク生原氏の遺影が飾られており、毎日手を合わせてから外出されるそうです。
長きに渡り、日本プロ野球会を支え続けた一人、山本昌広選手は、2015年10月7日 対広島戦で最後の登板を迎えました。
山本昌の背番号34のプラカードを持つ大勢のファン達に見守られながら、最後の雄姿を見せて、野球選手としての32年の現役生活に50歳1か月でピリオドを打ちました。
(※この試合、RCCテレビでは午後8時21分に瞬間最高視聴率50.5%占有率57.7%に到達。)
山本昌氏の現在の活動
そんな山本昌がいま、自身の野球人生を振り返りこういう言葉を私達に発しています。
人の人生にはいろんなチャンスがある。今はだめだと思っても、諦める必要は無い。
人生はたった1つのきっかけだけで、これだけ変われる。
変わり際は自分ではなかなか分からない。
でも、常に努力をしていれば、
結果として「あの時がそうだった」という時が必ず来ると僕は思います。
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