松田龍平さんと言えば、あの昭和のカリスマ俳優松田優作と女優の松田美由紀さんの間に生まれた3兄妹の長男です。
弟の松田翔太さん、妹のYUKIさんも芸能活動をされていますね。
松田優作さんが映画「ブラックレイン」を最後にこの世を旅立たれたのが、松田龍平さんがまだ6歳のころ。
早くに父を亡くした松田龍平さん。
そして、成長するにつれ父の存在が、自分の人生の選択にも影響する。
大きすぎる父の影との苦悩。
今日は、松田龍平さんと、その家族、そして故松田優作さんの人物像や伝説について書こうと思います。
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松田龍平のプロフィール
1983(昭和58)年5月9日生まれ
日本一走る姿が美しいとも言われた故松田優作と母松田美由紀の間に生まれる(長男)
小学校の頃からはじめたサッカーに夢中になり、中学時代には横河電気ジュニアユースに所属していました。
当時はJリーグブーム全盛期、松田龍平さんも将来をサッカー選手になることを目標としていました。
転機が訪れたのは中学3年生の時。
『御法度』の主役を探していた監督大島渚さんから出演を請われたのでした。
一度は高校受験を理由に断りを入れたが、大島渚から受験後なら出演可能か?と聞かれ断る理由に困ってしまう。
しかし、松田龍平さん自身、自分の将来を真剣に考えた結果、出演することを決意。
1999年に映画『御法度』でデビューしたのでした。
この映画出演により、新人賞を受賞。
松田翔太氏のプロフィール
1985(昭和60)年9月10日生まれ
一方、弟である松田翔太さんは、父や兄の進んだ俳優の道に入り2005年にスペシャルドラマ『ヤンキー母校に帰る~旅立ちの時 不良少年の夢』で俳優デビュー。
同じ年に、『花より男子』出演。
翌年2006年に、映画『陽気なギャングが地球を回す』で初の映画出演を果たします。
彼ら2人はその後も映画、ドラマでそれぞれ活躍の場を広げ俳優としてのキャリアを積み上げていきます。
俳優の両親を持ち、芸能界にも一般人にも未だ根強い支持者がいる松田優作という存在があり、順風満帆に芸能活動を歩んできたように見えるかもしれませんが、実は息子達にとっては、大きすぎる父の幻影との戦いの人生でもありました。
松田優作の軌跡
松田優作出生の秘密
1949(昭和24)年9月21日生まれ
山口県下関市 で日本人の父と在日韓国人の母との間に生まれる。
父は長崎出身の保護司で大村という姓。
母は下関で松田質店を営んでいた在日韓国人の松田かね子という名前の女性。
じつは松田かね子には、武雄という名の夫がいたが、パプアニューギニアで戦死。
実は松田優作の父、大村氏には郷里の長崎に妻子がいた。
そうとも知らずに一緒に暮らしていた松田かね子は、子供を身ごもる。
その子が後の松田優作なのです。
父である大村氏はかね子の腹に優作が宿った事を知り、長崎に逃げるように帰ります。
母、松田かね子は戦死した亡き夫との間に生まれた2人の息子(優作の義理の兄)と優作を女手ひとつで育てるのでした。
長崎に逃げ帰った父の大村は180cmを超える大柄な男でした。
やがて小学校に入った優作も、父の血を引いておりクラス一番の大柄でした。
当然、ガキ大将という立場となり子分を2人いつも連れ歩いていたそうです。
中学生となり、自分の出生の秘密を知ることとなります。
それまで普通の兄弟と思っていた2人の兄が、実は父親が違うということを知り、松田優作は心を痛めたようです。
高校在学中に、母かね子の勧めで叔母のいるアメリカで弁護士となるため渡米。
カリフォルニア州モントレー カウンティのシーサイドシティでハイスクールに入学します。
しかし、叔母夫婦の離婚や言葉の壁に悩み、母には無断で帰国することとなったのです。
その後、異父兄がいる東京都豊島区での居候生活が始まります。
私立豊南高校の夜間部に編入し、その後関東学院大学文学部に入学。
実はこの頃、松田優作は整形手術を受けます。
自分のつり上がった一重瞼〔まぶた〕が嫌いだった松田優作は、目の整形手術により二重瞼となりました。あまりお金がなかった松田優作は、抜糸には病院にいかずに自分でやったという逸話が残っています。
この頃、松田優作は新宿のBAR『ロック』という店でバイトを始めました。
松田優作 芝居の世界へ
1971年に劇団『文学座』の入所試験を受けるが不合格。
そして金子信雄の劇団『新演劇人クラブ・マールイ』に劇団生徒として入団。
この時に最初の結婚相手、熊本美智子さんと出会います。
出会ってすぐに同棲生活を開始。
1972(昭和47)年2月、文学座の役者であった村野武範がBAR『ロック』を訪れた時、優作の圧倒的な存在感を感じ、「いずれこの男はどこからか出てくるだろう」と感じたそうです。
そして、優作はその後に一度は落ちた文学座を再度受けて合格します。
本格的に役者として活動することを決意して関東学院大学に中退届を提出。
松田優作「太陽にほえろ!」出演のきっかけは麻雀の勝負?!
松田優作は、子供のころから喧嘩も強かったが、それにも増して麻雀が強かったと言われています。
ある時、こんなことがありました。
その年の9月に撮影現場で日本テレビのプロデューサーだった岡田晋吉から「どこかに良い役者はいないか?」と声を掛けられます。
松田優作は、村野と麻雀でカケをします。
「もし、俺が勝ったらプロデューサーの岡田に自分を紹介して欲しい」
松田優作はこうして村野と麻雀で勝負をします。もちろん買ったのは優作。
これがきっかけで、村野は岡田に「4期後輩で松田優作という駆け出しの男がいる」と伝えたのでした。
岡田は数日後、文学座のけいこ場に顔を出します。
そこに、ずば抜けた演技力で圧倒的な存在感を醸し出す一人の若者にくぎ付けになります。
その若者が松田優作でした。
麻雀のカケがきっかけでしたが、松田優作は自身の力で岡田をすでに虜にしていたのでした。
その年の12月、村野は自分がプロデュースしている番組「太陽にほえろ!」で、萩原健一(ショーケン)から番組降板の申し出を受けます。
再三の話し合いを経て降板が決まります。
そしてその後釜に、村野は松田優作の起用を考えます。
韓国籍であった松田優作は、もしファンの人達が自分が在日韓国人であることを知った時のことを考えて、日本に帰化することを決意します。
そして、通名として使用していた松田優作という名前を正式に日本国籍を取得した際に本名へと登録をしたのでした。
そして松田優作は、1973(昭和48)年の7月20日放送の「太陽にほえろ!ジーパン刑事登場!」で初出演。
そしてジーパン刑事柴田純役としてレギュラーメンバーとして起用されます。
まだ無名の時代から、周囲を圧倒する存在感をもっていた松田優作。
彼は、これをきっかけに人気に火が付き、スターダムへの階段を急速に登りつめていきます。
松田優作、1度目の結婚
1975(昭和50)年9月21日に同棲生活4年を経て熊本美智子と結婚します。
結婚式もなく、届け出だけの入籍でした。
そして長女紗綾も誕生します。
1979(昭和54)年8月、「探偵物語」で私立探偵役として出演。
このドラマで2人目の妻となる熊谷美由紀と出会います。
松田優作が初めて美由紀と出会ったとき、「今まで見たことがないエキセントリックな女だ」と衝撃を受けます。
そして、「この女から離れられない・・・」と感じたそうです。
しかし、1981(昭和56)年の秋のある日、すでに美由紀と禁じられた関係にあった松田優作は、苦悩のあまり思いがけない行動をとります。
妻美智子と娘紗綾、そして不倫相手の美由紀との関係に悩んだ松田優作は、その自己嫌悪から自らの命を断とうと決意します。
東京からひとりバイクに乗り日本海まで走ります。
そして新潟県のある海岸にたどり着きました。
数時間、そこに立ち尽くして自ら招いた苦悩を悔いていた時、
ふと母の声が聞こえた気がしたそうです。
「自分が死んだら親兄弟が悲しむ上に、紗綾も自分と同じ様に父親の居ない子供にしてしまう。死ぬ気になれば何でもできるはずだ・・・」
10月、優作は妻美智子と娘紗綾と暮らした家を出ます。
美由紀との暮らしを始めるためです。
優作の中では、美由紀との愛を捨てることは出来なかったのです。
1981(昭和56)年の暮れに、優作は一通の手紙と共に離婚届を美智子に送ります。
その手紙には、離婚しても娘のために松田姓を名乗る事を書き添えていました。
そして、12月24日のクリスマスイブに離婚が成立します。
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松田優作、2度目の結婚
そして松田龍平の誕生を機に、正式に結婚します。
その後、数々の映画、ドラマで活躍をする松田優作。
1988年、深作欣二監督の『華の乱』では吉永小百合と共演し、共に主役を演じます。
しかし、この頃から松田優作の身体に異変が生じはじめるのです。
それは、尿が出ず腹に水がたまりパンパンに張るという症状でした。
松田優作 ハリウッド映画ブラックレイン出演と闘病
そんな体調の中、同じ年の1988年、松田優作は憧れのハリウッド映画のオーディションに合格します。
映画『ブラックレイン』のオーディションです。
1989年の年始からニューヨークでのロケが開始されました。
念願のハリウッドデビューでした。
しかし、この映画の撮影中、自身が癌に侵されている事実を知ります。
治療方法はあったのですが、それを拒み進むロケ。
当時、優作の身体の状態を知っていたのは、撮影関係者の中では安岡力也氏のみでした。
「先生、たとえどんな病気でも、正直に俺に言ってください!でも、周りにだけは絶対に言わないでくれ! 女房には言わんでください・・・」
映画『ブラックレイン』は同年3月に無事クランクアップ。
10月にはブラックレイン公開。
松田優作は、冷酷非情の悪役を演じ、主役のマイケルダグラスや高倉健にも負けない演技を見せます。
かれらの演技は日本だけでなく、アメリカ、ヨーロッパでも大絶賛。
世界的なヒットとなりました。
それを確かめるのを待っていたかのような松田優作。
その年の11月6日午後6時45分、膀胱がんの腰部転移のため東京武蔵野にある西窪病院(現在の武蔵野陽和会病院)にて眠るように帰らぬ人となったのでした。
享年40歳。
昭和のカリスマ俳優のあまりにも早すぎる死でした。
優作が弟の様に可愛がっていた仲村トオルは、優作の遺体の前で「優作さん!起きてください!早すぎるよ!!」と泣き叫びました。
息を引き取る瞬間、優作の目元からは一筋の涙がこぼれ落ちたといいます。
時には強烈な個性を発揮し、ニヒルで眉間のシワが印象的だった松田優作。
しかし、そんな彼の口から出た言葉
「ちゃんと言ってくれれば、酒もタバコもやめたのに・・・」
まるで駄々っ子のように医師に食ってかかることもあったという。
亡くなる前、妻美由紀さんにこんな言葉を残したそうです。
「おまえは一切、子供たちを怒らないでくれ・・・
優しくしてやってくれ・・・
怒るのは男である俺の仕事だから、恨まれるのは俺だけで十分だ・・・」
「たとえ肉体が滅んだとしても、魂ってのは絶対無くならないんだ・・・絶対に・・・」
まだ幼い龍平と翔太、夕姫を残していく自分の想いを美由紀さんに伝えたかったのでしょう。
病院で闘病していた松田優作さんは、まだ幼い龍平と翔太を決して病室には来させませんでした。
その理由は、「父親は決して弱いところを息子に見せてはいけない。怖くて強い父であらなければならない。男だから。」
ただ、娘には見せても良いということで、当時2歳の夕姫さんは病室で父優作さんとの時間を過ごされたようです。
現在の夕姫さんの画像
早いもので、松田優作さんがお亡くなりになられて、もう27年が経ちます。
優作さんの妻、美由紀さんの言葉がここにあります。
ダーリン、お元気ですか?
上のほうは、毎日天気が続いてて、きっと気持ちがいいんでしょうね。
優作の髪が風に吹かれて、遠くを見つめてる横顔を感じます。
いつも感じていました。
道を歩いているときも
電車に乗っているときも
いつもいつも、優作が後ろに立っていて、抱きしめられている感じ。
背中があたたかくて安心な感じがして気持ちがいい。
でも、本当はいつも一人
後ろを見ても、振り向いても誰もいない。
まさか、私の肉体なんて、入ってくれるわけないけど
優作の小指の先をなめたから、たぶん栄養になってるはず。
私のダーリン、私のダーリン 何年たっても
どうして涙が出るんだろう。
ダーリンの髪がゆれているよ
筆者からのあとがき
あの昭和の時代、ブラウン管ごしに私たちに圧倒的な存在感を見せつけた松田優作。
芝居に命をかけ、命がけで人を愛した松田優作。
時に危険な空気をまとい、時に激しい感情を発する彼の奥には
芝居、そして自分をとりまく人達に対する繊細な気遣いや生真面目さが垣間見える。
それは彼自身が人生から得た教訓や哲学から編み出されたものではないだろうか。
出生の秘密を知った時から、ずっと心の奥にこびりついていたコンプレックス。
そんな自分を払しょくするために、自分が本気になれる居場所を探し求めて
そして見つけたのが、自分では無い自分を演じる場所
そして、自分が見失いかけた松田優作という一人の人間としての
アイデンティティー
それを取り戻すために突き詰めたこと
探し求めた本当の自分
何をするために、自分はこの世に生まれてきたのか?
それを見つける場所
それが芝居の世界だったのではないかと思えるのです。
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