中東に数ある国のひとつイラン。
核開発の疑惑がかけられ経済制裁が続きましたが、IAEAの調査にも協力的と判断され、
2016年1月にイランへの制裁が解除されて国際社会に復帰を果たしました。
石油資源は埋蔵量3位とも4位とも言われ、天然ガスは世界1位。
いまそんなイランに世界中が注目しています。
日本ではあまり知られていませんが、観光国としても魅力があり、
かつて日本とイランはお互いにVISA無しでお互いの国を行き来できるくらい
友好な関係を築いていました。
多くの人が知りませんが、イランはじつはとても親日国なのです。
今日は、戦後に日本とイランが深い絆を作るきっかけとなったある出来事についても書いていこうと思います。
教科書では、あまり取り上げられていない出来事。
出光興産という当時は中小規模だった石油会社とイランが信念と誇りをかけてイギリスと戦った事件。
世界中が驚きと希望を感じました。
敗戦国の日本を世界の多くの国々が支持した日章丸事件。
これが敗戦で自信と希望を失いつつあった日本に、一筋の光を示します。
中小企業の社長であった出光佐三氏とイラン国家が知恵や勇気を出し合い極秘に計画
それぞれの誇りをかけて石油メジャーに挑戦した実話をご覧ください。
出典:http://persia-tourism.com/jp/
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イランが親日国となる日露戦争から日章丸事件まで
かつて多くの国が欧米の植民地政策により苦しめられてきました。
とりわけ有色人種の国が、イギリスやフランス、スペインなどの国により長い間、支配や搾取を強いられてきました。
多くの有色人種の国が欧米の植民地化により虐げられていた時代にある出来事が発生します。
1904(明治37)年、ヨーロッパから遥か遠い極東の島国が、大国ロシアを相手に真っ向から挑みます。
その極東の小さな島国は、日本。
日露戦争の開戦です。
世界中が見守る中、多くの国は日本の敗北を予想していました。
しかし、その予想を破り極東の小さな島国である日本が、大国ロシアに勝利するのです。
このことは世界中に衝撃的なこととして伝わります。。
当時イギリスの新聞で、こんな記事も掲載されました。
「日本人は、西洋の学問を吸収し、それらを応用し組み合わせて独自に使いこなすことが出来ている。この東洋の島にすむ民族は、われわれが100年かけて育んだ文明を、わずか一世代のうちに習得したのだ。」
さらに、
「ロシア軍は、ロシア人最高の武勇を発揮していた。しかし彼らに挑む日本人はもっと偉大だと言わざるを得ない。」
「粘り強さ、機転の良さ、勇気、厳しい状況への見事な対応。それらを目の当たりにして、今世界中が興奮してやまない。」
「日本人は誇り高い西洋人と並び立つ列強であることを世界に示した。」
日露戦争の流れ
日露戦争は陸軍大将乃木希典(のぎまれすけ)率いる第三軍が、
遼東半島に明治37(1904)年6月6日に上陸。
「乃木希助」
出典:http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-329.html
ロシアの永久要塞に対して突撃。
日本軍の中では、開戦当時、「早期に攻略可能」という予想でした。
しかし、戦いは熾烈を極め、攻略には時間がかかりました。
国内で乃木大将に対する批判が高まります。
しかし、ついに明治38(1905)年1月1日、要塞の正面を突破。
ロシア軍旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリに対して降伏を勧告。
ステッセリはこれを受けます。
これにより停戦が決定。
要塞攻略後、乃木大将は敵国司令官ステッセリと会見を行いました。
その際、乃木大将は、記者団にステッセリの写真を撮るのは1枚だけと言います。
その理由を聞かれた乃木大将は、こう言います。
「敵将に対して失礼ではないか。後々まで恥となる写真を撮らせるようなことは、日本の武士道が許さぬ。」
乃木大将は、敵軍司令官ステッセリに対して、こうした極めて紳士的な対応をしました。その情報は世界中に伝わり、多くの国の賞賛を浴びることとなるのでした。
数々の功績を残す乃木大将も最後は殉死されます。
乃木大将の因む神社が全国に建立されました。現在全国各地に数多くある乃木神社です。
赤坂8丁目と9丁目に乃木坂という坂がありますが、これはその付近に建立された乃木神社があること、そして、赤坂区議会が乃木大将をしのんで坂の名前を乃木坂に変更することを協議したことが発端です。
最終的には議会で乃木坂と命名されます。
乃木大将の功績がなければNKB46も、この世に存在しなかったのでしょうね。
日本はロシアとの戦いにおいて、海戦でも勝利します。
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる日本海軍連合艦隊は、ロシアの第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を対馬沖で迎撃します。
「東郷平八郎」
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
その戦術は海軍史に例を見ない方法で、ロシア海軍は東郷の采配に翻弄されます。
結果は、日本海軍連合艦隊の勝利。
すでに旅順要塞を陥落され、次いでバルチック艦隊も破られたことが、のちのポーツマス講和会議へと繋がり、日本は日露戦争の勝利を手にするのです。
この時、日本はまだ江戸の時代の終焉、明治維新により鎖国が解けて
わずか約50年しか経過していませんでした。
欧米諸国からすれば、極東の小国日本が大国ロシアに勝利したことは大変驚く出来事でした。
まだ国際社会で認められていない東洋の小国にすぎなかった日本。
日本政府は、一日も早く列強国として国際世論に認められるためにも、戦時国際法を遵守しました。
ロシア海軍の多くが海に投げ出されましたが、日本軍はかれらを懸命に救助。
また、対馬や日本海沿岸に漂着した敵兵に対して、適切に対応。
これらにおいても、世界各国から多くの賞賛が寄せられました。
バルチック艦隊の提督ロジェストヴェンスキーは、「敗れた相手が閣下(東郷平八郎)であったことが、私の最大の慰めです」と言い、涙を流します。
さて、こうした一連の日本とロシアの戦いを見守っていたのは、欧米列強国ばかりではありません。
イギリスや他の欧米列強国から独立を勝ち取ることを夢見る世界の多くの有色人種の国の人たちは、固唾をのんで日露戦争の行方に注目していたのです。
当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国は、日本の勝利を自国の勝利のように喜びます。東郷平八郎は、オスマン帝国の国民的英雄になるのです。
オスマントルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポンヤ」という名前を子供につける人もいました。
また、エジプトの民族学者ムスタファー・カーミル氏は、当時反英独立運動に従事していました。
彼は、ロシアと戦い、勝利するまでになった日本という国を賞賛し、
「昇る太陽」という本まで出します。
そしてこう言います。
「日本の歴史こそ、東洋の諸国にもっとも有益な教訓を与えてくれるものと信じる」
また、
「日本人こそは、欧米に身の程をわけまえされたやった唯一の東洋人ではありませんか。どうして日本人を愛さずにおれましょう。」とも語られたのです。
インド初代首相ネルーは、「日本の勝利は私を熱狂させた。どんなにたくさんのアジアの少年少女がおなじ感激を体験したことか。」
こうして、当時の日本政府は鎖国で立ち遅れた我が国をなんとしても欧米の驚異から守るため、軍備を増強しながらも世界の世論を味方につける舵取りをしていきます。
その中で、おなじくソ連による脅威にさらされて来た国の一つ、イランは日本に対して好意的な感情を持つことになるのです。
しかし、そんな日本を「出る釘」と判断した欧米諸国により日本は経済封鎖を受けます。
ABCD包囲陣
アメリカ・イギリス・中国・オランダの頭文字をとり呼称されたこの経済包囲網は、しだいに日本を窮地に追いやります。
そして、欧米列強国に対して日本は、アジア人(有色人種)として戦いを挑むこととなるのです。
真珠湾攻撃から始まった太平洋戦争は、圧倒的な物量と兵力を持つ連合国により、同盟国(日本・ドイツ・イタリア)を次第に攻略していきます。
日本は、広島と長崎に原子爆弾を投下されたことにより連合国に対して無条件降伏を余儀なくされたのです。
敗戦後、日本は連合国による管理下にあり、これが日本の戦後復興の大きな足かせとなっていました。
同じく以前から親交のあるイランもイギリスにより自国の石油資源を管理され国民は貧窮に喘いでいました。
失意と自信喪失。
国民の多くが、悲しみにうちひしがれました。
そんな戦後の状況のなか、ひとりの中小企業の社長がある大胆な構想を考えます。
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イランが日本と深い絆で結ばれる!親日国となったきっかけの日章丸事件とは?!出光石油とイランが石油メジャーへ宣戦布告!
「イギリスによるイランの国内の貧窮」そして「自国の経済発展」を憂慮したひとりの男が立ち上がります。
その男の名前は出光佐三(いでみつさぞう)。
出光興産創業者であり初代社長です。
百田尚樹氏に「海賊と呼ばれた男」という小説のモデルとして取り上げられた人物です。
出典:http://showa-g.org/men/view/186
当時、まだ石油販売では中小企業だった出光興産。
このまま欧米に石油を握られたままでは、日本の経済復興は困難を極める。
出光が目をつけたのはイランでした。
出光佐三はこう言います。
「この度のイギリスが発した経済制裁に国際法上の正当性は無い。」
第二次世界大戦後、イギリスから独立をしていたイランですが、その石油資源はイギリス資本「アングロ:イラニアン石油会社」の管理下にありました。
※アングロ・イラニアン石油会社は、現在BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)となり現在も石油メジャーとして世界的に強い影響力を持っています。
アングロ・イラニアンはイギリス政府投資の元、イランの石油を事実上支配しており、イランの国庫にも、イラン国民にも利潤が回らずイギリスに対する反発を強める大きな要因でした。
そしてとうとうイランは1951年、自国の石油利権を我が物とするイギリスに対して、石油資源の国有化を宣言します。
しかし、イギリスはこれに反論します。
イランの石油は、イギリスに所有権があると主張。
イギリスの許可なくしてイランから石油を買う者に対しては軍事力をもって制裁を与える。
このことは、アーバーダーン危機と呼ばれるイランを取り巻く中東の危機に発展します。
しかし、この経済封鎖に国際法上の正統性がないことに目をつけた出光佐三は、イランの貧窮と日本の経済発展を目的として極秘裏にある計画をたてます。
日本政府がイギリスと対立しないようにするためには、形式的に日本が直接買付をしていないように見せる必要がある。
出光は第三国経由でイランに交渉人を送ります。
航路をサウジアラビアへの航海に偽装
日本政府に外交上不利益を与えないための綿密な計画
航海中の危険回避
国際世論の動向
国際法を隅々まで調べ尽くして挑んだ出光の挑戦でした。
そして、イラン首相モハンマド・モサッデクやその他の要人と極秘の会談をすすめ、ついに1953(昭和28)年3月23日、神戸港から一隻のタンカーがイランに向けて出港しました。
その船の名前は日章丸。
出典:http://blog.jog-net.jp/201504/article_3.html
そして日章丸は、イギリスの監視を掻い潜り、同年4月10日無事にイランのアーバーダーン港に到着します。
この事実は即日世界中にニュースのトップに取り上げられ、連日の報道に世界中が注目することとなります。
武装されていない、日本のタンカーがイランに石油を買いに来た。
日本の中小民間企業が連合国の占領下に、イギリスという戦勝国に対して大胆な挑戦をしたことで、世界中の新聞は連日一面トップで取り上げます。
アーバーダーンに日本国籍のタンカーが入港したと報道がなされ、出光興産の日章丸と断定された時、出光佐三は「もう隠す必要は無い」と記者会見を行います。
「日章丸はアーバーダーンに安着しました。イランの国有石油会社から石油を買い付けて目下積荷中です。」
そう語ると、記者団から質問が相次ぎます。
イギリスに拿捕される心配はないのか?
イギリスとのトラブルにはならないのか?
出光佐三はその質問にひとつづつ答えます。
そして、最後の質問でこう答えます。
今回の日章丸のイランへの買い付けは、一企業の利益を追求した行動ではありません。私はそんなちっぽけなもののために日章丸と50余名の乗組員の生命を危険にさらすようなことはしません。
諸君はイラン石油の輸入を、突飛な離れ業のように思っておられるらしいが、そうではない。
広い大道をゆっくりと歩いているような、ごく自然な歩みなのです。
それは、私が常日頃に主張している「人間尊重主義」のドラマの一幕に過ぎません。
引用:http://blog.jog-net.jp/201504/article_3.html
つまり、出光佐三はこう言いたかったのだ。
石油しか資源のないイランでは、イギリス資本のアングロ・イラニアン社により石油を独占されている。
実際、イラン国内では80%もの国民が栄養失調で苦しんでいた。
かたや日本では経済復興したくても、国際石油資本(石油メジャー)から高い石油を買うことを強いられている。
貧窮にあえぐイランから石油を買いたたき、日本に高く売りつける。
これは、利益尊重主義であり、人間尊重主義を思う出光佐三の考えとは相反するものだったのです。
4月15日、石油を満載した日章丸はイランのアーバーダーン港を出港します。
浅瀬やイギリスの機雷網を避けながら命がけの航海です。
大英帝国の威信をかけて食い止めようとするイギリスの海軍の裏をかき、
日章丸は世界中が見守る中、海上封鎖を突破します。
そして、1953年の5月9日、川崎港に帰港を果たしました。
しかし、イギリスは国の威信をかけて、日本と出光に対して処分をするために動きました。
アングロ・イラニアン社は、日章丸の積荷の所有権を主張します。
そして東京地裁に提訴をしました。
さらに、日本政府に圧力をかけて出光に対する処分を促すのです。
裁判の場で、証言席に立った出光佐三はこう発言します。
この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として、
しかし、イギリスの石油独占に対してアメリカ政府は出光の日章丸による買い付けに関して黙認をします。
また、世界中では日本の出光の挑戦に対して多くの支持・喝采の声が叫ばれていました。
そして、アングロ・イラニアンの提訴による法廷の場で出光佐三はこう述べます。
「この問題は、国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民として俯仰天地に愧じない行為を以て終始することを裁判長にお誓いいたします。」
敗戦国の卑屈さなど微塵も感じさせない堂々した出光佐三の態度に、法廷内では感嘆の声が漏れました。
この裁判は結審まで3週間という早い時間で決着します。
北村裁判長が述べた主文は以下の通りです。
「本件仮処分を却下する。訴訟費用は申請人の負担とする」
イギリスは勘違いをしていたのです。
敗戦国の日本を属国のように思い違いをしていたため、勝てなくても最悪負けることは無いだろうと思っていました。
しかし、北村裁判長はそれを許す男ではなかったのです。
アングロ・イラニアン社は、一度は控訴しますが二日後には控訴を取り下げました。
これにより出光の勝利が確定したのでした。
この出来事は、大きな意味を持っていました。
これまで欧米の石油メジャーによる中東の石油産出国は支配されてきましたが、この日章丸事件をきっかけに、世界は石油の自由貿易へと変化していくのです。
戦後の日本の中小企業、出光興産と出光佐三の意思と行動が、今日でもイラン国民が親日である大きな礎となったのです。
2度目の日章丸のイランへの石油買付けの際、アーバーダーン港では多くのイラン人が出迎えました。
岸や桟橋の人だかりからは「ジャポン、ジャポン」と声が聞こえ、飛行機からは色とりどりの花が舞い降り、上陸した乗組員たちは歓迎するイラン人たちに取り囲まれます。
当時の首相モサッデク氏は、初代イラン駐在所長となった出光興産の佐藤又男氏を招き、後日このような言葉を交わします。
モハンマド・モサッデク首相
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/イラン
「日本人の偉大さはつねにイラン人の敬服の的です。その勇猛果敢な精神に感嘆しています。不幸にして今次の大戦には敗戦しましたが、いつの日か再び立ち上がる日のあることを確信してます。
そして、日本がイランのせきゅを買う決心をされたことは感謝に堪えない。日本はイランの救世主であると思っています。ぜひこのことを日本に伝えて、われわれイラン国民の真意を汲んでほしい。」
イギリスから独立をしたといっても、唯一の資源である石油を握られたままだったイラン。
国民の多くが貧窮にさらされた中で、出光が意を決して行動したことがイラン国民を救うことになったのです
まさに、出光佐三の言う「人間尊重主義」がイランを救い、そして日本を救ったのでした。
イランの歴史 古代から現代まで
日章丸事件についてお話する前に、イランという国の歴史を解説します。
イランの正式名称はイラン・イスラム共和国です。
その国の場所は、中東と西アジアの境目。
出典:https://www.google.co.jp/maps
この地に国家が出来たのは、時代をさかのぼること約2500年前。
古代オリエントの時代になります。
この地に、一大帝国を築いた国、それがアケメネス朝ペルシャです。
アケメネス朝ペルシャは、非常に広大な領土を支配していました。
東はインダス川、北はアラル海・カスピ海・黒海をつなぐ地域、
西は現在のリビア周辺を含む北アフリカ地域。
イランは、古代の帝国アケメネス朝ペルシャの発祥の地だったのです。
出典:www.y-history.net
アケメネス朝ペルシャの時代、現在のイスラム教はまだ存在していませんでした。
ペルシャ人はおもにゾロアスター教を信仰していました。
ゾロアスター教は、キリスト教や、イスラム教のような一神教ではなく
複数の神の存在を信じていました。
光の神アフラ・マズダは、善をつかさどるアフラ神の長
そして闇の神アーリマン(アンラ・マンユとも言われる)は、ダエーワと呼ばれる悪をつかさどる神たちの長
光の神と闇の神が戦い、最後に光の神がその戦いに勝利します。
そして全知全能の神となり、最後の審判を下すのです。
そのゾロアスター教は、のちにキリスト教やイスラム教にも影響を与えます。
さらに、実は仏教にも影響を与えています。
インドに渡りアフラ・マズダは光明仏ヴィローシャナになります。
ヴィローシャナは、中国、そして朝鮮半島を渡り日本に来ます。
大乗仏教において、その名前を毘廬遮那仏(びるしゃなぶつ)へと変化しました。
奈良にあるあの有名な東大寺の大仏様は、毘廬遮那仏です。
奈良の大仏様は、もとを正すとゾロアスター教の光の神、アフラ・マズダなのです。
また、アフラ・マズダは、真言密教で、マハー・ヴァイローチャナへと変化します。
マハー・ヴァイローチャナは、後に摩訶毘廬遮那仏となります。
そして、僕達も良く知っている神様、大日如来(だいにちにょらい)へ変化していくのです。
余談ですが、マツダ自動車のロゴがMATSUDAではなくMAZDAなのは、このアフラ・マズダのマズダを表現している為です。英語で発音するとマズダに確かになりますね。
このゾロアスター教は、後にキリスト教やユダヤ教の誕生にも影響をあたえます。
ユダヤ教にも、キリスト教にも、そしてイスラム教にも、それぞれにゾロアスター教の中で説かれたものが受け継がれているのです。
アケメネス朝ペルシャから、ササン朝ペルシャへ
アケメネス朝ペルシャは、やがてササン朝ペルシャへと変化していきます。
この時代には、オリエント世界の文化がシルクロードを経て日本まで繋がります。
また、正倉院の宝物庫に保管されている白瑠璃碗(はくるりのわん)。
出典:http://shosoin.kunaicho.go.jp/
これは、ササン朝ペルシャから遠く日本までたどり着いたと言われています。
遥か古代の時代から、日本と繋がりのあったオリエント世界。
現在、イランの国のある場所に、一大帝国として繁栄した国、それがペルシャなのです。
長い歴史の流れの中で、ゾロアスター教が栄えたペルシャは衰退し、やがてイスラム教徒による国へと移り変わっていきます。
現在のイランは?経済封鎖解除で観光国になる!?治安についても解説
イランへの経済封鎖が解除されたことで、世界中がイランに注目をしています。
石油資源に対する関心が高いのは当然ですが、個人的には観光の魅力について紹介したいと思います。
ペルセポリス遺跡
中東には、3大遺跡があります。
街の頭文字Pから3P遺跡とも呼ばれています。
その一つがイランにあるペルセポリス遺跡です。残りのふたつは、シリアのパルミラ遺跡、ヨルダンのペトラ遺跡です。
ペルセポリスは、記事前半で記載したアケメネス朝ペルシア時代の首都でした。
紀元前520年、ダレイオス1世の手により作られた都です。
1979年にペルセポリスは、世界遺産に登録されています。
シーラーズのピンクモスク
出典:https://retrip.jp/articles/1556/
シーラーズにあるマスジェデ・ナスィーロル・モスクです。
通称、ピンクモスク。
美しいステンドグラスを通して入る光が、ペルシャ絨毯に映し出される光景は、普段僕達が想像しているモスクとはかけ離れた印象です。
イラン最高峰のダマバンド山(標高5671m)
出典:www.saiyu.co.jp
イランは、砂漠と荒涼とした土地というイメージを持つかもしれませが、実は緑の多い国です。
中東の国ですが、国内にはスキー場も存在します。
サルアガセイエッド村
山の多いイランでは、斜面を利用した集落が点在します。
観光地ではありませんが、このような村の光景がみられるのもイランの魅力の一つです。
筆者からのあとがき
出典:http://fr.wikiloc.com/wikiloc/
世界遺産が19か所も登録されているイラン。
緑豊かで、色彩豊かな文化を持つ国。
遥か昔、オリエントの時代からその文化の影響を受けた国は数多く存在し、日本もその中の一つです。
いま、欧州では、イランが観光の注目を集めると多くの旅行会社の熱い視線が集まっています。
そんなイランに日本人が行くと、イラン人は羨望と親しみ溢れるもてなしを感じることが出来ます。
日本文化の「おもてなし」と通じる文化を持つ国、イラン。
僕たちは、知らないだけで世界には日本と親しくなりたいと願う国はたくさん存在するのです。
江戸時代の鎖国は、とっくの昔になくなりました。
しかし、多くの日本人は世界のことを知りません。
いま僕たちは、心の鎖国を解き放つ時期に来ているのかもしれません。
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