京都市東山にある臨済宗建仁寺
そこにある国宝『風神雷神図』の屏風(※複製 原本は京都国立博物館)
そのとなりに一幅の書が展示されている。
当時若干24歳の書家、金澤翔子(ショウコ)さんの書『風神雷神』である。
最初は期間限定の展示だったが、大きな反響を呼び期間を設けず展示されている。
金澤翔子さんは、生まれながらにしてダウン症。
翔子さんがこの世に誕生した時から、長い年月を母である泰子さんは苦しみました。
「死ぬよりも苦しいことがこの世にあるんだ・・・」
長い間、そう思い、もがき苦しみつづけた泰子さん。
今日は、そんな金澤翔子さんと母の泰子(ヤスコ)さん、父の裕(ヒロシ)さん
そして彼女の作品や美術館などについて書いていこうと思います。
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金澤翔子さんの父、裕さん そして母の泰子さんの苦悩の日々
結婚する前は、能や書道を嗜んできた泰子さん。
会社を経営する金澤 裕さんと出逢い、結婚。
3度の流産を経て、ようやく授かった子供が翔子さんでした。
しかし病院で出産してから一月が経過
他のお母さんたちが子供と一緒に退院していくのに、
自分はまだ一度も子供の顔を見ていない。
生まれてからずっと検査ばかり続く。
泰子さんは出産から一月も経っているのに、わが子を抱くことすら出来ませんでした。
「他の子共は退院していくのに、どうして私だけ子供を抱くことも出来ないんですか?先生、本当のことを教えてください。」
とうとう我慢が出来なくなった泰子さんは、先生に問い詰めます。
そして先生から返ってきた言葉
「お子さんは・・・・ダウン症です」
さらに、
「おそらく知能はなく、一生寝たきりで過ごすことになるでしょう」
※ダウン症とは、人の遺伝子の21番染色体が通常は2本なのに対して3本ある先天性の遺伝子異常。特徴として筋肉の発達や知的障害が多くみられる。
当時も今も、ダウン症について専門家でも間違った認識を持つ方が多い。
知能が無い、一生寝たきりなどということは決してありません。
しかし、泰子さんは病院で先生に言われた言葉を鵜のみにして、
それから長い年月、苦しむこととなるのです。
裕福な家庭に生まれ、知的な生活を送ってきた泰子さんにとって、
わが子が知的障害を持つという事実は、あまりにも過酷すぎたのでしょう。
生まれて間もなく翔子さんは敗血症になります。
交換輸血が必要となった時、医師はこう問いかけます。
「お子さんは敗血症で交換輸血が必要ですが、ダウン症です。どうしますか?」
その時、父親である裕さんは迷わずこう答えました。
「主よ、私はあなたの挑戦を受け入れます」
当時の日記にはその苦悩がこう書き記されています。
「ゆりかごの中で殺してあげなければ」と毎日おもいつつ
明日に・・・明日にこそは・・・と逃げてしまう。
この幼く 小さい か細い今、今が絶好の機であるにもかかわらず
わたしには、やはり実行できない
引用: 泰子さんの当時の日記より
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家で毎日泣きながら過ごす日々
仕事で帰りが遅い夫が帰宅して、翔子を満面の笑みで抱いている姿さえ
憎らしく思えた。
そんな夫が言ったひとこと
「ダウン症なんて関係ない。精一杯愛してやろう。」
優しく微笑みながら言った言葉。
裕さんがいったその言葉
そのやさしさに心が救われた泰子さん。
さらに、翔子さんに変化が見え始めます。
知能が芽生え始めたのです。
普通の子と比べると明らかにそのスピードこそ遅かったが、かつて医師が「一生知能は無い」といった言葉が間違っていたと気付き始めたのです。
その出来事は翔子さんにとっても泰子さんにとっても、大きな一歩でした。
わずかな希望の光が射し込んだ瞬間でした。
翔子さんが生まれてから、ずっと心の中で死にたいと考えていた泰子さん。
夫が翔子さんと触れ合っている時も、その気持ちが消え去ることはありませんでした。
しかし、泰子さんの心のなかで、死という意識が消えて
何気なく裕さんに「ありがとう」と言った時
裕さんはこう言います。
「やっとはじめて心から「ありがとう」と言ってくれたね」
裕さんは、泰子さんが口には出さないけれど、ずっと苦しんでいたことを見抜いていたのでした。
やがて翔子さんが5歳になったとき
泰子さんは、かつて自分が長年嗜んできた書道の教室を開きます。
幼稚園や保育園を断られ続けてきた翔子さんに、他の子供たちと触れ合う機会をつくってあげたかったのです。
「翔子に友達を作らせてあげたい」
近所の子供たちと一緒に書道教室で習ったときのことを翔子さんはもちろん今でも覚えています。
そして泰子さんは、さらなる挑戦を決意します。
それは、普通小学校への入学です。
普通小学校に入学が認められて2年目のこと。
運動会である出来事がありました。
徒競走でゴールの手前で突然立ちすくむ翔子さん。
「競技で迷惑をかけてしまった」
そんなことが頭によぎった母泰子さんでしたが、
この後の翔子さんが驚くことをします。
後ろを走っていた友達が転んでいたのですが、翔子さんはゴール直前から引き返し
その友達のところへ行って「だいじょうぶ?」と声をかけたのです。
他の子供たちと、競い合わない翔子さんでしたが、そんな翔子さんの性格が周囲の子供たち、そしてクラス全体を明るくしていきます。
気がついたとき、いつのまにかクラス全員が翔子さんの友達になっていたのでした。
かつて医者には、「知能はなく、一生寝たきり」と言われた。
だが、実際はこうして普通の子供たちと元気に、楽しく学校に通っている。
翔子さんと泰子さんの懸命な努力が実を結んだかのように思えた。
しかし、現実は決してそんなに易しいものではありませんでした。
翔子さんが4年生のとき、母泰子さんは学校に呼ばれます。
そして学校から言われた言葉、それは身障者学級のある他校への転校の勧めでした。
小学校高学年になると、進学で中学受験を控える時期。
それまでは、問題とされなかった授業の内容が、進学を控える時期に親御さんたちに懸念されはじめたのです。
小学校から見放された翔子さん親子。
もはや書の道しか私たちには残されていない。
そして、泰子さんと翔子さんは、それから懸命に書に没頭します。
般若心経を写筆しながら、二人は一生懸命練習します。
しかし、文字のバランスというものが分からない翔子さん。
泰子さんは紙に升目を書いてその中に文字が収まるように書くことを教えます。
筆使いでもじの尻を上げると教えても、上げるという意味を理解できない翔子さん。
母泰子さんは翔子さんをつれて坂道を登ることで、「上げる」という言葉の意味を教えます。
最初は、乱雑で文字とも言えないような風にしか書けなかった翔子さん、
それが二人の懸命の努力で書としての文字が書けるようになっていきます。
そして翔子さんは、ひたすら書を書き続けます。
ある日、父の裕さんはこう言います。
「翔子が20歳になったら、パーティーをしないか? ダウン症の翔子がここまで立派に成長しましたっていう報告会をしたいんだ。」
「そして翔子に書を教えてきたお前との親子の個展をやろう。」
そんな夢を翔子さんの将来に託した父、裕さん。
しかし、裕さんは、成長した翔子さんの姿を見ることなく、お亡くなりになられます。
享年52歳でした。
悲しみと絶望の中、希望を与えてくれた
無邪気に翔子を抱き上げあやしている姿にさえ憎しみを感じたこともあった
「精一杯愛してやろう」
自分の気持ちを救ってくれた、あのひとこと。
その言葉をくれた最愛の夫を亡くした泰子さんの悲しみは想像もできません。
さらに、まだ問題がありました。
翔子さんは、死というものが当時理解できませんでした。
母として、翔子さんに父の死というものを理解させなければなりませんでした。
泰子さんは、胸に手をあてて翔子さんにこう伝えます。
「お父様は死んでしまった。だからここには居ないけど、
翔子の胸の中に生きているんだよ。」
現在でも、翔子さんはお父さんと毎日会話をします。
自分の胸の中に生きている父と。
そして、父の裕さんが生前に望んだ夢
翔子さんの個展
2005年12月に、初の個展を開きます。
個展が終わった時、翔子さんはこう言いました。
「お父様は個展が終わった時に、『お疲れ様でした』って言ってくれました」
いま、泰子さんと翔子さんの書道教室には、たくさんの子供たちが習いに通っています。
「どんな子供でも、うけいれる」
その教室には、知的障害を持つお子さんも通われています。
かつて生きる意味を考え、求め続けた親子
愛と苦悩にあふれた人生から繰り出される翔子さんの書
その筆の動きは
「ちからづよく ありのままに」
翔子さんの表現する書は多くの人に感動を与えています。
出典:http://blogs.yahoo.co.jp/ksyouko0615/45616786.html
出典:http://kandj.blog23.fc2.com/
今、母泰子さんは、言います。
「なぜ希望が無いと思うの?」と昔の自分に言ってあげたい。
金澤翔子さんの経歴と美術館を紹介
1985年6月12日 金澤翔子さん 東京都目黒区にて誕生
5歳で母の泰子さんから書道の師事を受け始める
2005年 銀座書廊で初の個展開催
2009年 鎌倉の建長寺、京都の建仁寺で個展開催 (2009年以降毎年開催)
2011年 奈良東大寺 奉納と個展
福島に「金澤翔子美術館」開設
2012年 NHK大河ドラマ 「平清盛」揮毫
2013年 「銀座金澤翔子美術館」開設
平泉中尊寺 奉納と個展
熊野大社 厳島神社で奉納・揮毫
その他海外での個展など数多く活躍をされています。
筆者からのあとがき
私が翔子さんの作品で気に入ったものがこれです。
『言霊』
飛翔 / 金澤翔子 【単行本】 |
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