金井啓修(かないひろのぶ)さんという方をご存知ですか?
関西の奥座敷として1300年もの歴史を誇る日本三古湯のひとつ有馬温泉の老舗旅館「陶泉 御所坊(ごしょぼう)第15代目当主」として生まれ、旅館だけでなく有馬温泉という街全体の復活に尽力されたことにより、国土交通省観光庁の政策「観光カリスマ百選」にも選ばれた文字通り観光カリスマとして活躍している方です。
今日は、そんな金井啓修さんの、これまでの経歴やプロフィール、そして有馬温泉街の魅力について書こうと思います。
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金井啓修さんの経歴とプロフィール
1955年 兵庫県神戸市北区有馬町にて誕生
1911年創業の老舗旅館「御所坊(ごしょぼう)」の15代目跡取りとして生まれる。
高校卒業後、辻調理師専門学校へ
卒業は北海道にて就職
1977年 有馬に帰省。
観光協会青年部を発足し、地元有馬の活性にむけて動き始める。
1981年 株式会社御所坊設立 26歳の若さで㈱御所坊代表取締役社長に就任
この時から15代目 金井四郎兵衛の名を襲名
1997年 ギャラリーレティーロドウロを開業
1999年 ホテル「花小宿(はなこやど)」を開業
2001年 農業法人「グリーンパパ」設立
2003年 有馬玩具博物館開館・観光カリスマに選ばれる
有馬温泉と御所坊の遥かなる歴史
関西で有馬温泉と言えば、格式が高く歴史のある老舗旅館がある高級温泉のイメージがあります。
いま40歳以上の方で関西育ちの人は子供のころによく見たCM
「ありまひょうえのこうようかくへ~」でおなじみの兵衛向陽閣。
「げっこうえん♪ げっこうえん♪ ありま~」でおなじみの月光園。
他にも、有馬ロイヤルホテル、上大坊、角の坊、銀水荘 兆楽、中の坊瑞苑、有馬グランドホテル、元湯 古泉閣などここにはまだ書ききれない数々の名旅館が立ち並ぶ関西屈指の温泉街です。
有馬温泉は、日本の歴史的に見ても非常に古くから知られており631年には舒明天皇が3カ月滞在したことが日本書記に書かれているほど長い歴史のある温泉です。
室町時代には戦乱の荒廃により寂れた有馬温泉を仁西という僧が湯治場として復興させたこともあります。
先ほど挙げた旅館名を見ると気がつくことがありませんか?
有馬温泉の老舗旅館の名称には、経営者が違うのに~坊という名前が目立ちます。
これは、1191年に吉野の僧仁西上人が有馬十二坊と呼ばれる坊舎を建てたことが由来です。
現在でもこの伝統を継承している旅館があるため、~坊という名称の旅館が現存しているのです。
そして御所坊の御所の由来は、室町時代、時の将軍足利義満が有馬に訪れた際、御所坊の前身「湯口屋」に逗留したことがはじまりです。
この地を訪れた著名人の数は膨大です。
鎌倉・室町のころから皇族・貴族らにも愛され、清少納言の枕草子や、万葉集の和歌にも有馬(ありま)は歌われています。
太閤豊臣秀吉も有馬を愛するあまり、温泉街や周辺の手直しもしたと言われており、現在でも太閤~という地名がその名残で現存しています。
また、明治から大正にかけて活躍した芸術家森琴石(もりきんせき)は、有馬の旅館「中の坊瑞苑」の家に生まれました。
また同じ時代、画家として活躍した山下摩起(やましたまき)も有馬温泉の「下大坊」の跡取りとして生まれた方です。
神戸といえば、瀬戸内海と六甲山。
山と海が近く、山上からみる夜景は地元でも非常に人気。
ポートピアや阪神高速、神戸から大阪平野につながる夜景は格別です。
これが神戸の表側としたら、有馬は神戸の裏側。
六甲山の北側に位置する有馬温泉。
秋の紅葉、冬の雪景色が似合う純日本的な味わいがある温泉。
有馬温泉は、阪神大震災でもその名が知られた有馬高槻構造線の西端にあり、地盤の割れ目をつたって温泉が湧き出ています。
有馬温泉といえば、金泉・銀泉というように、赤茶色の鉄を多く含んだ金泉と、透明な炭酸水素塩泉の銀泉の2種類が楽しめる珍しい温泉です。と言われていましたが、近年になりラジウムを含む放射能泉も沸いていることが調査により判明しました。
これにより有馬温泉は3種類の泉質が楽しめる温泉ということになりました。
ラジウム泉といえば、鳥取にある三朝温泉も有名ですね。
古くから人々に愛されてきた有馬温泉は、やはり泉質も特別だったということですね。
しかし金井さんは、これほど歴史があり日本有数の温泉地有馬で何百年も続く老舗旅館の跡取りとして生まれたにも関わらず、当時旅館の跡を継ぎたいと思っていませんでした。
金井啓修さんが有馬を出て、そして故郷に帰るきっかけとなったある出来事
長い歴史のある有馬温泉ですが、過去にも衰退の危機はありました。
1960年代、日本は高度経済成長期と呼ばれる時代に入ります。
周囲の旅館やホテルは近代的に立て直されて行く中、金井さんの祖父は周囲とは全く違う方針で旅館を経営していました。
旅館は木造にこだわる。
古きものを捨てず、歴史的な情緒を大事にする。
数ある有馬温泉のCMでも、御所坊のCMでは木造の建物に拘るという説明がなされていましたね。
しかし、当時若い金井さんは、その祖父の考えややり方が古めかしく感じていました。そして年寄り達の考えが固執しており、温泉旅館経営というものが若い当時の金井さんには閉鎖的に映っていたのでした。
年寄り達を相手に、旅館の跡継ぎを務めるなんてまっぴらだ。
最初はフランスで画家を目指そうと考えており、就職先も決まっていました。
ところが、政治的な影響で急にビザが取れなくなり、フランス行きは断念。
しかし、送別会もすでに終わっており、今更有馬に帰るわけにもいかない。
こうした経緯で、最初に述べた北海道定山渓(じょうざんけい)温泉の旅館につてを頼って就職することになったのです。
そしてあるとき、金井さんは仕事の営業で青森を訪れます。
ふと郊外で見つけたピザ屋。
その店は、西洋風の骨とう品で飾られており、地元の若い女性たちにも人気のしゃれたお店でした。
都会とはまた違う独特の趣きの店。
そのピザ屋の店主の話を聞いてみれば、かつて神戸のピザ屋で修業をしたとのこと。
そんなピザ屋の店主が言ったひとこと
「田舎でしかできないことがあるんです」
その言葉が金井さんの心の奥にひっかかっているある事に響きます。
古い村社会のような有馬温泉での旅館経営
それが嫌で、家業を継ぐことを拒否し、外に飛び出した金井さん。
故郷から遠く離れた青森で出会った、骨とう品に囲まれた一軒のピザ屋。
田舎にあるその店に若い女性たちが集まる。
そして、その店の店主が言ったひとこと
「田舎でしかできないことがある」
金井さんの中で今までにない考えが生まれました。
「有馬に、若者を集めれば良いんだ」
そして、1977年金井さんは有馬に帰ります。
1981年には、株式会社御所坊として法人設立、26歳の若さで㈱御所坊代表取締役社長に就任。
これを機に「15代目 金井四郎兵衛」の名を襲名します。
かつて、「古めかしさ」、「高い年代の古参従業員たちの拘り」
そういったものを否定していた自分。
しかし、視点を変えてみれば、今まで気付かなかったことが見えてくる。
次々と生まれてくる発想を形に変えてみたい。
そして金井さんは、それを実行します。
1980年代、日本はバブル景気とかつて呼ばれた未曽有の好景気を経験します。
この時代、民間だけでなく行政も多くの投資を行いました。
有馬温泉も、この時期に多くの旅館・ホテルが大型化し、大規模な設備投資を行いました。
金井さんは、周囲が近代的なホテルや旅館へと転換していたバブル景気の時期、時代の流れに逆行するように、旅館の改造をしていきます。
昭和に建てられた木造建築の良さを残し、逆に大広間は無くして個室スペースへと転換。
しかし、一室のゆとりを広げたために客室数は、大広間をなくしたのに30室から20室へと減少。
一見、無駄な改造のように思えるかもしれません。
しかし、無駄に見えるゆとりを設けたのは狙いがありました。
細部までこだわりをもったさりげない空間づくり
こだわりは、アメニティや部屋の小物だけに留まらず、領収書の封筒も特別なものを用意しました。
大人のくつろぎを満喫できる旅館
この拘りがお客様に受け入れられ、部屋数は減らしましたが、客単価はむしろ向上します。
周囲の旅館が宿泊数を減らしている時期でも、売上が下がるどころかむしろ上がっていったのです。
しかし、平成の時代の荒波は、それだけで乗り越えられるようなものではありませんでした。
1990年代に入り、今度は未曽有の不況が来ました。バブル崩壊です。
加えてあの多くの被害をもたらした阪神淡路大震災。
これらにより、有馬温泉の集客人数は激減します。
有馬復活のためには、いよいよ温泉街全体が力を合わせなくてはいけない。
金井さんと、有馬温泉の次世代を担う地域の跡取り息子達が動き始めます。
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金井啓修氏が観光カリスマとなった温泉街を巻き込んだ仕掛けとは?
格式の高さは、敷居の高さ。
有馬は関西でも屈指の格式のある温泉。
若い人達にはとっつきにくい。
有馬復活のためには、いよいよ温泉街全体が力を合わせなくてはいけない。
ましては、この不況で有馬温泉旅行に足を運んでもらうためには、今までの工夫では足りない。
金井氏達は新たな試みに挑戦します。
廃業寸前の旅館を借り受けて素泊まりが出来る「泊食分離」型旅館の挑戦。
ルームサービスを廃止することで価格を低く設定
外国からの利用者のために和室にベッドを置いてみる
まるで大正ロマンの和洋折衷スタイルを見事に再現できました。
こうして試みから始まった旅館「ホテル花小宿」は現在、数か月先の予約まで埋まるホテルへと成長しています。
有馬八助商店の設立
有馬地域の異業種の子息8人が集まり各自40万円ずつを出資して設立。
この有馬八助商店は、有馬温泉街の活性化のための挑戦として
天ぷら屋「有馬市」
ラーメン屋「有馬ラー麺青龍居」
「有馬ループバスの開始」
運営費用の不足分を補うために有馬名物の炭酸煎餅と掛け合わせて
「有馬ループバス炭酸煎餅」を有馬八助商店で企画・販売。
その売上をバスの運営費用に補てん。
有馬温泉に必要なものを、街全体の事業で補いながら有馬を活性化させる試み。
一事業者だけでは到底不可能な企画を、地域の他業種の跡取り達を巻き込むことで、実現させました。
元来、温泉宿は宿泊客を旅館の外に出したがらない。
宿泊滞在中、温泉宿から出さないことで、旅館にお金を落としてくれる。
そんな古い発想を捨てて、有馬温泉に観光に来てくれた人達に、温泉街を楽しんでもらう。
震災復興のイベント企画で、温泉入浴&昼食のランチクーポンを企画発売
「価格が安すぎる」「対応が難しい」などの理由で反対もあったが、温泉全体のうち3分の1の理解賛同してくれる人たちと力を合わせて挑戦した。
この企画が、当たりこれまで敷居が高いイメージだった有馬温泉に、多くの観光客が訪れるきっかけとなります。
いまでは、この企画が有馬温泉全体の収益源となっています。
温泉街は、宿泊客が旅館から外に出ない。だから街が寂れていく。
観光客が、街にある店や飲食店、外湯に繰り出す。
その結果、温泉街の商店街までにぎわいを取り戻す。
海外のリゾート地からも、観光資源の活性化を学ぶために金井氏と有馬温泉を訪ねてこられると言います。
この実績を国土交通省観光庁が着目しました。
全国の観光地の復興と活性の旗印として、 金井氏を『観光カリスマ』に認定したのです。
青森のピザ屋で店主に言われた言葉
「田舎でしかできないことがある」
その時感じたインスピレーションで故郷の有馬に帰った金井氏。
そんな金井氏と有馬温泉の方たちの挑戦は、
いま全国の温泉街だけでなく、世界の観光地の道標となっているのです。
筆者からあとがき
私は有馬温泉のある六甲山の東端の街「宝塚」で生まれ育ちました。
ですので、子供のころから神戸、六甲山、有馬にはなじみがあります。
宝塚もかつては温泉街の情緒あふれる街でしたが、時代とともに変わりました。
有馬温泉は、そんな時代に翻弄されながらも古き良き情景を残しながら、進化している街です。
夏には近くでホタルも見れる清流が流れ、温泉街には子供も楽しめる釣り堀もあります。
秋には極上の紅葉も楽しめ、ロープウェーにのれば六甲山にも登れます。
時代とともに、多くの古き良きものが淘汰され、消えていくことが多い時代
子供のころに見た景色が変わらずに残っている。
何十年たって、その地を訪れた時
かつて家族と一緒に見た風景がそこにある。
とても大事なことに思えます。
そんな伝統を守るために金井さんが気付いたこと
金井氏は今、そのことをこう表現しています。
「伝統は革新がなければ守れない」
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