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大山清子さん元オマーン国王との純愛秘話!経歴や画像と娘ブサイナ王妃も紹介!

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日本人の血が流れた王族が広い世界には存在します。

オマーン国カブース国王の叔母であり、元オマーン国王タイムールの妻である大山清子さん、そして二人の間に生まれた娘の節子さん(ブサイナ王女)について、清子さんの3人の妹達の話を交えながら書いてみたいと思います。

 

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大山清子さんと元オマーン国王タイムール王との純愛秘話

オマーン国の歴史とタイムール元国王の経歴

時は第二次世界大戦よりも前、今からさかのぼって約80年前の1935(昭和10)年、アラブの国の一つオマーン国の元国王が日本に訪れました。

 

少し、当時のオマーン国の内情についてお話します。

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オマーン国は、アラビア海に面した国です。

アラビアと西アジアのちょうど間にある国で、絶対君主制の国です。

首都はマスカット。

紀元前2世紀頃にアラブ人が入植し、7世紀ごろにイスラム教が主体の文化や国家を形成します。

16世紀のヨーロッパ諸国の植民地政策が活発化した時代に、ポルトガルやイギリスの影響を強く受け、18世紀にはイギリスとオマーン国は同盟を結びます。

その後、インド洋から東アフリカ沿岸においてオマーンは強い影響力をもっておりオマーン海洋帝国時代を築きます。

 

しかし、欧州で起こった産業革命と蒸気船の普及が進むと、それまで帆船で周辺海域を交易を支配していたオマーン国は次第に衰退し始めます。

 

その時代に、ある日本人がオマーン国にてタイムール国王と面会しています。

その日本人とは地質学者・志賀重昴氏です。

1924(大正13)年、志賀氏は世界中を回る旅の途中でオマーン国を訪れます。

そしてその際に、当時のスルタン(首長・国王)であるタイムールとの面会をしようと訪問します。

 

タイムール国王は、志賀氏の申し出を快く受け入れ、日本とオマーンの友好や交易について二人は熱く語り合ったそうです。

 

当時、イギリスと同盟を結んでいるとは言え、実質的にはイギリスの傀儡国化していたオマーン国。

さらには、内陸部と沿岸部での国内の対立問題。

西洋諸国からの政治的干渉。

様々な問題によりタイムール国王時代、政権を維持して国政を守るのも非常に苦しい状況でした。

 

当時、タイムールは身分を隠し、お忍びで世界旅行をしていました。

その彼が訪れた数々の国

その中のひとつ、日本で運命的な出会いをします。

 

タイムール元国王と大山清子さんの出会い

1935(昭和10)年、日本を訪れたタイムール国王が神戸を訪れた際、ダンスホールで踊る一人の女性に目を奪われました。

 

その女性の名は大山清子さん(当時19歳)

 

最初は戸惑う清子さん。

無理もありません、出会った時タイムール国王と清子さんは親子ほどの年の差があったのです。

当時、清子さんは神戸税関の職員として勤務していました。

古くから海外との玄関として発展してきた神戸で税関職員として外国人との関わりもあった清子さんにとっても、アラビア圏の人との出会いは多くはありませんでした。

 

しかし、タイムール氏の深い熱意を感じ取り、次第に心を開いていきます。

 

タイムール氏は、正式に結婚をするために一旦オマーンに帰国します。

 

お忍びで世界を旅行していたタイムール氏。

この時すでに王位はタイムール氏の息子であるサイード国王に譲っていました。

アラブの国では、一夫多妻制です。

タイムール氏が日本で清子さんと出会った時、じつは彼には6人の妻と5人の息子、そして1人の娘がオマーンに存在していました。

問題はそれだけではありません。

 

「娘を異国の人のもとに嫁がせるわけにはいかない。」

清子さんのご両親は、タイムール氏と清子さんとの結婚に猛反対されたそうです。

 

「清子さんをオマーンに連れて帰ることは、彼女の両親を悲しませることとなる。彼女と一緒になりたければ、自分が日本で暮らすほか無い。」

 

そう思ったタイムール氏は、清子さんと日本で暮らす準備をするためオマーンに一時帰国をします。

そして、翌年日本に帰ってくるのです。

 

 タイムール氏が日本に永住してまで清子さんと結婚をしたいと思ったのは、よほどの強い想いがあったのでしょう。

 

清子さんのご両親が結婚を認める条件。

それは、日本で暮らすこと。

 

タイムール氏は、そのご両親との約束を守ることを誓います。

そして、二人は正式に結婚をします。

驚くことに、この時清子さんもご両親もこの時点では、タイムール氏がオマーン元国王であることを知りませんでした。

 

タイムール氏は、清子さんと正式に結婚をすると、神戸に立派な邸宅を建てました。

豪華な装飾品を清子さんのために用意し、二人は裕福な暮らしをされていたそうです。

 

 

清子さんの3人の妹さん達が当時の様子をこう語っています。

【大山昌子さん 神戸市灘区、美智子さん 芦屋市、張喜子さん 神戸市中央区】

 

「外国人の多い神戸でも中東の人との国際結婚は珍しかった。しかし姉はシンデレラのようで幸福そうだった」

「当時はまだ、珍しかった外国製の給湯器、冷蔵庫、オーブンなどが揃っていて、普段はダンスパーティーや船上パーティーに出席したりして優雅に過ごしていた」

 

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娘ブサイナ(節子)王妃の誕生

在りし日のタイムール国王と、ブサイナ王妃(節子)の幼き頃の写真画像

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出典:http://blogs.yahoo.co.jp/crazy_head_man/33719715.html

 

結婚の翌年には、娘が誕生します。

名前を節子と名付けました。のちのブサイナ王妃となる方です。

 

そして、数年後の節子さんの誕生日にある人物が神戸のタイムール夫妻のもとに来日します。

 

元オマーン国王タイムール氏の息子、当時のオマーン国王であるサイード王です。

 

ここではじめて清子さんや、周囲の人達はタイムール氏が元オマーン国王であったことを知り驚くのです。

 

ちなみに来日当時、サイード王はタイムール元国王の息子ではありますが、清子さんよりも5歳年上。

タイムール元国王は既に50歳近い年齢でした。

 

文化、宗教、身分、そしてタイムール氏にとっては王族という問題をも抱えながら、清子さんとの神戸での生活を望んだのは、清子さんに対する深い想いがそれほど強かったのでしょう。

 

オマーンといえば、アラビアンナイト発祥の国 シンドバッドの出生地と言われています。

しかし、タイムール氏と清子さんの出会いは、シンドバッドではなくリアルシンデレラストーリーですよね。

 

しかし、そんな幸せの絶頂にいた二人の時間は長くは続きませんでした。

 

タイムール氏がオマーンに一時帰国していた1939(昭和14)年の11月

清子さんは腎盂(じんう)炎を患い帰らぬ人となるのです。

 

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出典:http://lbgym.jugem.jp/

大山清子さん急逝

タイムール元国王は、その訃報を聞くや急いで日本に戻ります。

神戸に戻ったタイムール氏は、最愛の妻の死に嘆き悲しみます。

 

タイムール氏は清子さんと縁のある兵庫県東加古川市稲美町に、最愛の妻清子さんのお墓を建てました。

 

1940(昭和15年)9月、タイムール氏は最愛の妻が残してくれた娘節子に王族の財産を譲るためにオマーンに帰国します。

 

当時幼い節子さんは、清子さんの3人の妹に「トランクに赤ちゃんのラクダを入れて帰ってくるからね」と日本語で言い残して出発しました。

 

しかし、この事が後々節子さんにとって辛い半生を味わう事となるのです。

 

その翌年の1941年、タイムール氏にとっても予期せぬ重大な事態が発生します。

 

後に太平洋戦争という呼称で呼ばれる「大東亜戦争」の開戦です。

 

オマーン国はイギリスと結びつきの強い国です。

アメリカ・イギリスなど欧米列強国を相手に戦争を開始した日本は、オマーン国にとっても同盟国の敵国となります。

 

これにより節子さんやタイムール元国王は、簡単に日本には戻れなくなってしまったのです。

 

タイムール氏は、娘節子の将来を考えて王族の相続権の手続きをしました。

しかし、太平洋戦争の終結後に帰らぬ人となってしまわれるのです。

 

娘の節子さんは父タイムールの死後王族家に引き取られます。

オマーンではブサイナ妃となりました。

しかし、オマーン国内において日本人との混血の妃が王家にいるということは国民には知らされませんでした。サイード王家がその事実を隠したためです。

 

ブサイナ妃(節子さん)はサイード王により長い間、隔離幽閉されることとなります。

 

ブサイナ妃が幽閉から解かれたのは、サイード王の息子であるカーブース・ビン・サイード・アル・サイードによる宮廷内クーデターで父サイード王を追放してから後のことです。

 

カーブース王は、現オマーン国王です。

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出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

このクーデターにより、ブサイナ妃(節子さん)は母の死から40年近く経てやっと自由の身になりることが出来ました。

 

そして、母と父と共に家族が幸せに暮らした神戸の地に足を踏み入れます。

母清子さんとの僅かな軌跡を確かめるように来日したのです。

 

そして、ブサイナ妃(節子さん)は清子さんの墓前で泣き崩れられました。

 

独裁政権を敷いていた元タイムール国王の息子、サイード王を追放したカーブース王

オマーン国を混乱に招いた父に対し、その息子カーブース・ビン・サイード・アルサイード王(タイムール元国王の孫)。

 

現在、オマーンはカーブース王により統治されて、堅実に発展をしています。

カーブース王は、彼の父サイード王の保守的で独裁的な政治を1970年の無血宮廷革命により覆し、現在はオマーンの近代化政策に取り組んでいます。

 

ブサイナ妃とカーブース王は、甥と叔母という関係です。

 

カーブース王は、国民に対して意見を求め、耳を傾ける政策を実践しています。

彼の手により、現在オマーン国は安定した政治的状況に置かれています。

 

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さらに、オマーン国は親日国でもあります。

東日本大震災では、南相馬市のある浄水器メーカーに、震災後26億円分もの発注をしました。

 

少しでも日本の助けになれば。

そして、その浄水器はオマーン国には渡りませんでした。

何故なら、カーブース国王はその浄水器を、震災のあった日本で役立てて欲しいと頼んだからです。

 

この事に、ブサイナ妃の働きかけや影響があったのかどうかはわかりません。

 

しかし、オマーン国が震災で苦しむ我が国に多大な援助をしてくれたこと。

 

私達が知らない所で日本と世界は繋がっている。

 

この事実を忘れてはいけませんね。

 


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