片岡鶴太郎というお笑いタレントについて今日は書こうと思います。
最近松本明子さんの例の四文字事件の真相で片岡鶴太郎さんが仕掛け人だったということが話題に出てましたので、彼の経歴やプロフィールも振り返りながら、バラエティとはまた違う彼の素顔に迫ってみたいと思います。
私は、子供の頃『俺たちひょうきん族』が大好きでした。
今でこそ、世界の北野武と言われるお笑い界の大御所ビートたけしさんと、明石家さんまさんが、タケちゃんマンとブラックデビルというキャラクターで、大いに笑わせて貰った印象がとても強く残っています。その番組にも片岡鶴太郎さんが出演されていて、良い味を出してらっしゃいました。
ある時期からボクサーを目指したりドラマにも出て活躍されたりしてマルチな活動をされるようになりましたね。
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片岡鶴太郎さん、松本明子さんを奈落の底に突き落とす
先日、話題になった松本明子さんとの放送事故のエピソードですが、これはかなり有名な話です。
今ではバラエティタレントとして不動の地位を確立された松本明子さんですが、当時はアイドルで売り出していました。
私は、あるイベントで松本明子さんがゲストで登場して生で見た事があるのですが、実はとても綺麗な方です。
テレビでみるのとは違い、やはり芸能人って特別なものをもっているんだなぁと感心したものです。
そんな松本明子さんが、ある番組で放送禁止用語のある4文字を発したことで、大騒ぎになりました。
その時の映像がありますので、紹介しておきます。
衝撃の瞬間はコチラ
これにより、松本明子さんはしばらく芸能界を干される事となりました。
しかし、動画を見ると言わせたのは片岡鶴太郎さんでは無いようにも見えますが。
まぁ流れを作ったのは片岡鶴太郎さんですので、責められても仕方ないですよねぇw
さて、少しふざけてしまいましたが、片岡鶴太郎さんは現在アートの世界で新しい道を開かれていますね。
お笑いタレントから、ボクサー、そして美術の世界へと移っていった彼の経歴に触れてみたいと思います。
片岡鶴太郎さんの経歴
生年月日:1954(昭和29)年12月21日
本名:荻野 繁雄(おぎのしげお)
所属事務所:太田プロダクション
出身:東京都荒川区西日暮里
片岡鶴太郎さんは、戦後の東京で生まれました。
実家は、所沢。祖父が神田で青果店を営んでいましたが、鶴太郎さんが6歳の時に父が急死。
それにより母は出て行くこととなるのですが、鶴太郎さんは長男ということで所沢の本家に一人残されてしまいます。
そして大きくなってから就職する際に、成増の金属工場に勤めるようになり、その後に母と再会します。
当時は、母親が恋しくなりさびしい想いもされたことでしょう。
鶴太郎さんが10歳の時、フジテレビの素人が参加する番組『しろうと寄席』に出演。
この番組のADが後のフジテレビの立て直しに尽力した名プロデューサー横澤彪(よこざわたけし)さんです。
横澤彪さんといえば、ビートたけし、明石屋さんま、タモリをスターダムに押し上げた敏腕プロデューサーで、「笑っていいとも」「俺たちひょうきん族」をつくった方です。
ちなみに、この方みなさんも良くご存じのはず。
懺悔の部屋を覚えておいででしょうか?
最後にマルかバツかで水をかぶるか、紙吹雪が舞うかというヤツです。
そこで神父役をしていた人がいるのを覚えてませんか。
実は、かれが横澤彪さんなのです。
横澤さんは、フジテレビを退社後は吉本興業へ移ります。
吉本興業東京支社長、専務取締役を歴任されますが、残念な事に2011年1月8日に、肺炎のためお亡くなりになられます。
告別式には、片岡鶴太郎、山田邦子等600人の方が参列されたそうです。
バラエティの一時代を作った敏腕仕掛け人の最後を多くの芸能人が偲ばれたそうです。
勿論、片岡鶴太郎さんも、その中の一人です。
片岡鶴太郎さんも、こうしたビッグ番組で活躍するまでには長い下積み時代がありました。
高校を卒業してから俳優になろうとします。
そして片岡鶴八に弟子入り。
声帯模写の芸で舞台に立ちます。
有名なエピソードがあります。
ある日師匠の片岡鶴八が、鶴太郎さんをそば屋に連れて行きました。
そば屋では、そばの食べ方の手ほどきを受けたり「芸人として売れるまで、そば屋では盛りそばしか食べてはいけない」という、古き時代の芸人の世界のしきたりも教わりました。
鶴八師匠は、そういっては鶴太郎さんの目の前で美味しそうな天丼を食べられたそうです。
しかし、鶴太郎さんは「これが師匠の僕に対する激励なんだ。僕に早く売れるようになって好きなだけ天丼を食べられるように頑張りなさい。と言ってくれているんだ。」
そう感じたそうです。
そして、「いつか売れたら師匠と一緒に、ここで天丼を食べたい」
そう決意したそうです。
しかし、その願いはかなうことはありませんでした。
鶴太郎さんがやっと売れだした1980年、脳溢血で倒れられて鶴八師匠はお亡くなりになられるのです。
その後、しだいにテレビでの活躍の場が広がって鶴太郎さんはメジャーへと登って行きます。
小森のおばちゃま、タコ八郎、マッチ、近藤正臣などのモノマネでお茶の間を沸かすようになるのです。
この他にも九官鳥の「キューちゃん」のモノマネ等もありましたね。
しかし、片岡鶴太郎さんに転機が訪れます。
ある日、これまでの自分が嫌になった。
自分を変えたい。
この想いから、プロボクサーを目指します。
そして、懸命の努力でプロテストを合格。
公式戦での活躍はありませんでしたが、鬼塚勝也や畠山隆則選手のセコンドなどで貢献します。
ある日、ボクシングをテレビ中継で見ていたら鶴太郎さんがリングサイドに居るというので驚いた方もいるのではないでしょうか。
この後、鶴太郎さんは自分の芸能活動の軸がわからず苦悩されます。
元々お笑いで飛び込んだ芸能界。
しかし、お笑いの世界にはビートたけし、さんまという大きな存在がある。
コントでも志村けんという存在が大きい。
自分は・・・
俳優になるしかない。
テレビでみる弄られて、その場を笑いに変えている顔の裏側では、そんな苦悩があったのです。
ある時、名番組「クイズダービー」にゲスト出演した際、珍回答で会場を爆笑の渦にしたことがありました。
鶴太郎さんは、自分のキャラと番組のためを思い珍回答で観客を楽しませようとしていたのですが、番組中に司会者の大橋巨泉からなんども「馬鹿じゃないの?」とけなされました。
放送終了後、鶴太郎さんは一人楽屋に戻り悔し涙を流されたそうです。
しかし、そんな苦悩を経ながらも片岡鶴太郎さんは俳優の道を突き進みます。
数々のドラマ、映画をこなしていくうちに、次第に鶴太郎さんの渋い演技が認められ始めるのです。
そして、大河ドラマにも抜擢。お笑いでは無く、シリアスな刑事モノ、サスペンスドラマなどでも活躍され、今日の俳優片岡鶴太郎さんとなったのです。
そんな鶴太郎さんですが、さらに新しい転機が訪れます。
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片岡鶴太郎さんが画家になるキッカケ
この動画でコメントされていますが、片岡鶴太郎さんが画家になるキッカケをつくったのは、じつはタモリさんなんです。
書いた絵を「いいとも」で披露したのがキッカケでした。
その番組をみた画家、横尾忠則さんが番組に電話をかけ
「いまテレビを見ていたんだけど、その絵は本当に鶴太郎さんが書いたのですか?」
こういった経緯から、片岡鶴太郎さんは本格的に画家を目指されます。
水墨画からはじまり、現在では様々な作風の絵を発表されています。
その一部をご覧ください。
片岡鶴太郎さんの作品の数々
出典:http://kataoka-tsurutaro.com/
椿に金魚
七福神
蛇
寿 伊勢海老
どうですか?
なんともいえない優しい色味と独特のタッチですよね。
今では、絵画だけにとどまらず、こんな作品も出されています。
京の四季 二曲一双
出典:https://www.hankyu-dept.co.jp/
着物や、陶芸と、様々な創作に現在では活動されています。
片岡鶴太郎さんの作品はネットで買う事が出来るので紹介しますね。
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前畑 片岡鶴太郎 山里 ペアビアセット |
どれも、素敵な作品ばかりですよね。
かつて、松本明子さんを奈落の底につきおとした片岡鶴太郎さん。
そば屋でいつか師匠と天丼をたべるようになりたいと願った鶴太郎さん。
大橋巨泉さんから、「馬鹿」と罵られひとり楽屋で悔涙を流した鶴太郎さん。
自分の居場所を探し求めて苦悩した日々
そして、アーティストとして自分を表現する場所をついに見つけた片岡鶴太郎さん。
彼の作品は、どことなく不器用で優しい彼の人柄
そんな彼らしい優しさが感じられる作品ばかりです。
私もひとつ彼の作品を手にしてみたいと思いました。
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