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岩崎弥太郎と坂本龍馬の出身秘話と知られざる関係!家系図から見た子孫達は?

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もし、世の中が平穏で波乱や混乱というものがなかったら、一介の無名な男として今日我々が知ることもなかったかもしれない。

歴史上には、そういう男達がいます。

 

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出典:ja.wikipedia.org

 

今日これから書く、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)と、坂本龍馬、そして彼らをとりまく幕末の男達はまさにそういう男達かもしれません。

 

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 岩崎弥太郎と坂本龍馬の出身地 土佐の国に幕末まで存在した激しい差別の歴史

 

岩崎弥太郎や坂本龍馬を語るとき、彼らの生まれた土佐の国で関ヶ原の合戦以降続いた激しい差別の歴史について触れなくてはなりません。

 

かつて、関ヶ原の合戦前までは土佐の国は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が治めていました。四国を統一した長宗我元親ですが、関ヶ原前に急死します。

 

ご存じの様に、関ヶ原で石田光成率いる西軍(豊臣軍)は、小早川秀秋の裏切りにより東軍徳川家康に敗北します。

長宗我部は、もともと東軍側につく考えで密書を送ろうとしていました。

しかし、それを察した石田光成が長束正家に命じて近江の水口で阻止をします。

 

これにより東軍につくチャンスを失ったことが、徳川300年の長い歴史の間、旧長宗我部の家臣の子孫に悲惨な差別を与えることになるのです。

 

関ヶ原の合戦で勝利を手にした徳川家は、旧豊臣の息がかかった土佐を治めるために、山内家を土佐の藩主とします。

 

山内家とその家臣たちは上士と言われ土佐を支配する者たちでした。

かたや長宗我部家の子孫は下士(郷士)と呼ばれ、同じ武士でありながらその扱いと差別は非常に厳しいものでした。上士は下駄を履いても良いが、下士は草履。下士が上士に立て付けば切り捨て御免。といった差別がまかり通っていたのです。

 

岩崎弥太郎も坂本龍馬も、この長い歴史の間、上士に差別されつづけた郷士の家に生まれたのです。

 

彼ら郷士は、その後幕末という波乱の時代に風雲児のような活躍をします。

 

後に海援隊を率いる坂本龍馬や土佐勤王党の盟主となる武市半平太(瑞山)、京都で人切り以蔵と呼ばれ恐れられた岡田以蔵、他にも幕末の志士として歴史に名を残した若者達の多くが土佐の郷士出身だったのです。

 

郷士として生まれた時からどれだけ努力しても上士の上に立つことは出来ない。

そんな理不尽で不遇の世界を知った彼らにとって、幕末の騒乱はそんな世界を変えるチャンスのように写ったのかもしれません。

 

岩崎弥太郎も、その一人なのです。

 

 

岩崎弥太郎の生い立ち (経歴)

土佐国(現在の高知県安芸【あき】市)井ノ口村の地下浪人(じげろうにん)、岩崎弥次郎と美和の間に長男として誕生

生年月日:天保5(1835)年1月09日

 

21歳の時に、藩から江戸での遊学(今でいう留学 昔は藩が国であり、許可なくして藩を出ることは脱藩として厳しく罰せられていた)を認められ朱子学者の安積艮斎(あさかごんさい)の元で勤勉に励みます。

 

弥太郎が20歳の時、父親が酒の場での諍いが元で投獄された為、土佐に帰国。

弥太郎も父の冤罪を訴えたところ、父同様に投獄されてしまいます。

皮肉な事に、この時に同じ房に捕われていた商人から算術と商法を学ぶことが出来たそうです。

このことが、弥太郎に商売の知識と感心を植え付ける最初のきっかけとなりました。

 

出獄後は、村を追放された後、山内家家臣である吉田東洋の開く塾、小林塾に通い始めます。

 

※ちなみに吉田東洋の祖先、吉田正義という人物は、関ヶ原前は、長宗我部元親に仕えていた。つまり郷士と呼ばれる立場であった。

しかし、名家の家柄であった為に、関ヶ原後に土佐を治めることとなった山内一豊の再三の要望で、上士として迎えられ仕官したといういきさつがある。

 

 

弥太郎は、この小林塾で長い生涯において深い関係を結ぶこととなるある人物と出会うことになります。

それは、後藤象二郎と乾退助(後の板垣退助)です。

後藤象二郎は、吉田東洋の甥であり、乾退助と共に土佐の上士でした。

しかし、才覚のあった岩崎弥太郎は彼等ともしだいに交友を深めていくのでした。

 

後に、岩崎弥太郎が明治最大の政商と呼ばれるまでに至るきっかけは

この小林塾で後藤象二郎や乾退助との出会いがあったからとも考えられます。

 

 

初めての藩職就任と長崎赴任

岩崎弥太郎が25歳になった時、小林塾の師吉田東洋の推挙により藩職につくこととなる。

その内容は、当時開港した長崎での海外の情報収集というものであった。

同じ頃、長崎ではイギリスの商社「ジャーディン・マセソン社」のトーマス・グラバーという人物が長崎に来ていた。

 

グラバーは、この長崎で貿易商として活動をし始めていたのです。

日本の生糸、茶、焼き物や漆器は欧州で人気があったため輸出で利益を上げました。

また木綿、佐藤、武器弾薬は日本で重宝された為、輸入でも莫大な利益を生みました。

こうしてグラバーは、日本政府や藩と取引と関係を深め、大政商として発展していきました。

 

さて、長崎に赴任した岩崎弥太郎は、当時長崎での仕事に頭を抱えていました。

それは、これまで学んできた漢学が、長崎という西洋文化溢れる土地では全く無益なものだったからです。

それでも彼は、必死に海外の情報を集めようとして、官費をつかい蘭学者や中国人を接待します。

次第に自身が遊びに呆けてしまい、官費をつかい果たしてしまいます。

これが理由となり岩崎弥太郎は、無断で職を辞めて土佐に帰国しました。

勿論、藩職も免職です。

この頃、花街でグラバーと弥太郎はおそらくすれ違っていたに違いありませんが、まだ二人がお互いの存在を知るまでには、もうしばらく時を要します。

 

開成館を土佐藩が設立

1865(慶応2)年、土佐藩は富国強兵を目的として「開成館」を新設。

物事の理をき、事業を功させる

という意味を込めて名付けられました。

 

開成館には、身分を問わず、能力のある人材が集められました。

 

かつて吉田東洋のもとで一緒に学んだ後藤象二郎が、土佐商会の主任。

坂本龍馬が土佐の外郭機関である亀山社中の海援隊として活動を始めたのもこの時です。

 

岩崎弥太郎と坂本龍馬は、ここで繋がるのです。

 

 しかし明治元年(1868)に、長崎の土佐商会が閉鎖されます。

この時、岩崎弥太郎は、大阪の開成館大阪出張所(大阪商会)に移動します。

 

明治2(1869)年、大阪商会は九十九(つくも)商会と改名。

 

廃藩置県により明治6(1873)年に、藩は解体。

そして、土佐藩の負債を肩代わりする条件で藩所有の船2隻を岩崎弥太郎は手にします。

これを画策したのが、後藤象二郎です。

 

これにより、岩崎弥太郎と九十九商会は、藩の機関ではなく弥太郎個人の会社として活動を開始しました。

 

名前も改称し、三菱商会となります。

 

このときに、土佐藩山内家の家紋『土佐柏」と岩崎家の家紋『重ね三階菱』を組み合わせて、今の三菱のマーク『スリーダイヤ』のマークを作りました。

 

しかし、船の扱いを知らない弥太郎は、長崎のグラバーを通じてイギリスの商船隊で名高いウィリアム・ウォーカーという船長を紹介される。

 

後の三菱の海運業に繋がるノウハウは、この時に培われた。

 

 また、後にグラバーが九州の炭鉱を経営していた際、そのひとつである高島炭鉱の事業が行き詰まり破産をしたことがある。

この時、助けたのが、三菱商会の前身である九十九商会を経営していた岩崎弥太郎だった。

 

生まれながらにして、相手を圧倒する声と胆力をもった岩崎弥太郎が経営に乗り出すと、青い目の外人では言う事を聞かなかった荒くれ鉱夫たちが、弥太郎のいうことには従った。

 

グラバーは、この時をきっかけに生涯、弥太郎との友情を守り、三菱の為に尽力したといわれます。

 

その代表的な逸話を次で話します。

 

国産初のビール会社設立に挑戦した岩崎弥太郎とグラバー 

 

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出典:winedineniseko.com

 

今日も存在する麒麟(キリン)ビールは、岩崎弥太郎が当時経営不振に陥っていたアメリカ人が経営するブルワリーを買収することをグラバーに持ちかけたことがきっかけです。

 

破産状態で出資金が集められなかったグラバーは、「ジャパン・ブルワリー」という新会社を立ち上げて、アメリカ人のブルワリーを買収することを考えます。

 

しかし、この頃岩崎弥太郎の身体には病魔が忍び寄っていました。

結果的に、グラバーがジャパン・ブルワリーを買収して「麒麟麦酒」と改名した時は、岩崎弥太郎はすでにこの世には居ませんでした。

 

岩崎弥太郎の死後、グラバーは親友のウィリアム・ウォーカーを筆頭株主として出資させ、他にも弥太郎の理解者である後藤象二郎、渋沢栄一にも出資を依頼。

そして、岩崎弥太郎の実弟である弥之助を大株主に迎えます。

 

1885(明治18)年、グラバーは重役として就任、国産初のドイツ風ラガービール『麒麟ビール』を明治屋から販売を開始するのです。

 

三菱グループの宴会は、キリンビールという伝説は今にも残っているわけは、こういうことなのです。

 

 しかし、麒麟ビール設立を望んだ本人、岩崎弥太郎はこのとき既に他界していました。グラバーは、麒麟ビールを弥太郎が生きているうちに、飲ませたかったと大変悔やんだそうです。

 

 

 岩崎家の家系図

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正直、これに関しては書ききれないくらい、岩崎弥太郎の子孫の方々は政治や経済、芸術、学問の世界で活躍されています。

ココに関しては、ご自身でお調べ下さい(汗)

ただ、特筆するのは、血脈で日本の総理大臣を2名輩出しているのは、後にも先にも岩崎家だけです。

岩崎弥太郎が政治と繋がりがどれだけ強かったのかは、想像できますね。

 

 

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岩崎弥太郎 三菱商会での教育改革

その教育方法は現在ハーバード大学でも学ばれている

 

近代の国の発展において研究しているハーバード大学のビジネススクールでは、『起業家精神とグローバル資本主義』という授業の第一部に「岩崎弥太郎」がテーマとして取り上げられています。

 

そもそも国の経済発展・成長にはその国の政策や制度が大きく影響しています。

特に、社会階級の区別が強い国では、経済発展がうまく行かないケースが多いです。

 

日本は、幕末から明治維新にかけて特殊な方法で社会制度を改革した珍しい国です。

 

幕府や藩という既存の制度を壊して、政府と民主主義を国民が作り上げるというとんでもない事を実現した国なのです。

 

それも、その原動力となったのは、坂本龍馬や岩崎弥太郎などの地方の下級武士です。

 

そして、岩崎弥太郎は身分の低い出自でありながら、新しい明治政府の後押しもあり、今日まで受継がれる三菱グループを作った創始者なのです。

 

その時代、周辺の諸外国は欧米に植民地化され、実効的支配の下にいました。

しかし、日本は木と紙と土で出来た家に住む文化でありながら、鉄で出来た船を持つどの国からも支配されることなく、新しい社会を作り上げた唯一の民族なのです。

 

三菱商会の社員教育は、当時の概念では全く考えられない視点で行われていました。

 

当時、九十九商会から転身した三菱商会の社員のほとんどは武士達でした。

 

身分制度では、武士といえば、社会階級の上位です。

 

しかし、三菱商会のお客たちは武士ばかりではありません。

 

むしろ、町人や一般の人達のほうが圧倒的に多いのです。

 

当時の海運最大手といえば、日本国郵便汽船会社。

 

それに対して三菱商会というと、所詮個人企業です。

 

しかし、日本郵便汽船会社はサービスということを知りません。

 

ただ、載せてやっていると言わんばかりの態度で仕事をしているだけの大手に対して岩崎弥太郎は考えます。

 

笑顔で応対することを社員達に教えるのです。

 

「自分は武士である」という意識が抜けない社員達には、小判の絵を描いた扇子を配り、「お客様を小判と思え」と指導したのです。

 

そして次第に売上が上がっていった三菱商会。

 

また、小林塾、土佐商会と古くから強い関係を築いていた後藤象二郎は、新政府において大阪府知事となっており、三菱商会の大きな後ろ盾となっていました。

 

その後ろ盾により、岩崎弥太郎は巨万の富を手にしていくのです。

 

しかし出る釘は打たれるというように、政治的、経済的な敵が出てきます。

 

強い後ろ盾だった後藤象二郎も征韓論争で力を失っていきます。

 

大久保利通が暗殺されたことに続き、大隈重信が失脚。

 

岩崎弥太郎の協力な後ろ盾が、次々と力を失っていく中、政敵であった井上馨、渋沢栄一などの政財界の反三菱勢力からの攻撃が激しくなっていくのです。

 

三菱商会のメインである海運業を叩きつぶそうと、共同運輸会社が誕生します。

 

熾烈な戦いにより、船の運賃が競争前の10%まで落ち込むという厳しい戦いでした。

 

皮肉にも、この時考案した船の積み荷を担保に資金を融通する荷為替金融が、のちの三菱銀行へと発展していきます。

 

しかし、こうした戦いは2年も続きました。

 

その間、社員を守るために岩崎弥太郎は自分の個人財産の多くも手放して会社と従業員達を必死で守りました。

 

しかし、このときの心労が元で岩崎弥太郎は身体に異変が生じていきます。

 

 岩崎弥太郎の最後

政治力を駆使して日本の海運王となった岩崎弥太郎も、52歳の時に胃がんでこの世をさります。

 

四国の、特に土佐人は「少々」というと升×2と冗談半分で言われるほど、お酒好きというイメージがあるように、「斗酒なお辞せず」で岩崎弥太郎も多酒飲みだったようです。

 

しかし、共同運輸との熾烈な戦いは、かれに酒を良薬にはしませんでした。

たび重なる心労により、次第に身体を蝕まれていたのでしょう。

はらわたが腐るような苦しみを耐えながら、かれは商売の戦いから最後まで降りなかったのです。

 

亡くなったのは、六義園(岩崎家別邸)です。

 

明治18年2月6日 大量の胃液を吐く

翌7日の16時 呼吸停止

カンフル剤で蘇生

18時 母と姉妹の名前を呼ぶ

 

 

明治18(1885)年2月7日の夕刻、岩崎弥太郎は、六義円に家族と近臣の部下を集めました。

 

その時に、これからの三菱について残した言葉があります。

 

第一、 吾より速やかに競争を挑み敵に遅れることなかれ

第二、 合併論に賛成同意すべし

第三、 銀行を設立して東洋の金権を握るべし

 

そして、こういう言葉も遺しています。

「今、遺言したいことは、使っている社員は三菱のあらん限りひとりも暇を出してはならぬことだ。また老いて役に立たぬようになっても、必ず食うに困らぬだけの事はしてやらねばならぬ。そうでないと、三菱の事業は末永く繁盛せぬと知るべきである。」

 

「岩崎家は嫡流を重んじる家系なので、長男久弥に跡目を継がせ、弥之助は補佐し、小早川隆景の毛利輝元を補佐するようにせよ。

 

弥之助、わが事業を落とすなかれ。

 

腹の中が割けそうだ・・・

 

もうなにも言わん。」

 

そして、午後18時30分

 

右手を空にかざし

医師達に一礼をすると、そのまま息絶えたそうです。

 

この岩崎弥太郎の死に立ち会った医師のひとりは、その時の様子を思い出し

このように語っています。

 

「数多くの臨終に立ち会ってきたが、かくの如く森厳な力のある遺言を述べ、従容自若、死に対した人を見たのは初めてだ。」

 

 

 

かれの葬儀は、明治18(1885)年の2月13日、東京の駒込近くの染井墓地で執り行われます。

その葬儀には、約7万人もの人員で準備が行われたそうです。

墓地周辺の畑にはむしろが敷き詰められました。

6万人分もの料理が用意され、貴賎を問わず岩崎弥太郎に縁のあった者たちは参加したそうです。

  

 

 岩崎弥太郎に学ぶこと

土佐の田舎、郷士という身分に生まれた岩崎弥太郎

 

運命のいたずらで、父親が牢獄にいれられたことがきっかけで学んだ商学

 

生まれつきの才覚と、時代の混乱が巡り合わせた小林塾での出会い

 

しかし、それだけで今日まで続く三菱をつくることは出来なかったでしょう。

 

財閥時代から、「三菱は、岩崎家のものではない。国家社会のための三菱である。」

 

この精神が裏付けるように、国家と三菱の結びつきが強い為、様々な批判も耳にします。

 

しかし、三菱グループは現在も日本経済を支える企業であることは、まぎれもない事実です。

 

最後の最後まで、三菱の行く末を案じてこの世を去った岩崎弥太郎。

 

今の日本はどうですか?

 

あなたの思い描いた未来ですか?

 

僕達は、幕末の時代を生き、日本を生まれ変わらす原動力となった土佐の郷士達から学ぶことがあるのかもしれません。

 

いまを生きている私達が、考えて行動すべきことは何なのか。

 

僕達も、それを見つけるべき時代に生きています。

 

 

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