埼玉県にある忍城(おしじょう)。
映画「のぼうの城」のモデルになった実在する城。
天正18(1590)年、城主成田氏長(なりたうじなが)が小田原に加勢で不在の中、突如現れた石田光成率いる豊臣勢20000に囲まれた武蔵国(むさしのくに)忍城。
城代成田泰季(なりたやすすえ)も籠城戦最中に病死。そして立ちあがったのが劇中で野村萬斎演じる泰季(やすすえ)の息子、成田長親(なりたながちか)。
映画では痛快な戦いぶりと長親の民衆からの絶大な支持を表現しているが、実際のところはどうなのか?
忍城の現在と、映画のロケ地、そして成田長親と甲斐姫の史実を紹介しながら書いていきます。
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のぼうの城と城主成田氏の実話(史実)は?
のぼうの城とは、埼玉県行田市にある忍城(おしじょう)の事です。
行田市は埼玉県でも北部に位置しており、さきたま古墳軍(さいたまの名前の元となったと言われる)や戦国時代の史跡も残る歴史感豊富な土地です。
忍城は室町時代に地元の豪族であった成田氏によって築城されており明治維新で取り壊されるまで現存していました。
映画でも見られるように、実際に豊臣秀吉の小田原征伐の際に石田光成により水攻めに遭いましたが、沈むことなく戦国乱世を耐え抜いた名城なのです。
周囲に湿地帯があり、点在する島を橋で渡して作られた城でした。
沈まない城
ここから「浮き城」とも称される様になりました。
当時から天守閣はなく、三階櫓(さんかいやぐら)の城でしたが、明治維新で取り壊されてしまいました。
それを1988(昭和63年)に本丸跡地に三階式櫓が建てられ、復元されています。
忍城址の詳細
住所:埼玉県行田市(ぎょうだし)本丸17-23
郷土博物館の営業時間:9:00~16:30
定休日:月曜日
電話番号:048-554-5911
料金:郷土博物館は大人200円・高校生は100円・小中学生は50円
面白い事に、豊臣2万の軍勢にも落とせなかった難攻不落の忍城にあやかり、いまでは受験生や商売をしている方むけに「人気が落ちない・試験に落ちない・業績が落ちない」という願いを込めた『成田氏家紋キャンディー』というものも売られています(笑)
のぼうの城のロケ地は?
映画「のぼうの城」のロケ地ですが、ひとつは滋賀県で行われていました。
場所は滋賀県大津市千野
撮影された時期は、稲刈りの時期らしいです。
出典:http://www.shiga-location.jp/filedir/office/33_1.pdf?t=1453054005
そしてもうひとつ紹介するのが、北海道苫小牧市
あの劇中の水攻めのシーンを撮影するために、巨大オープンセットをつくったそうです。
その広さはなんと、東京ドーム20個分。
そして、撮影の為に使用された土の量は、11トントラックで5000台分というではないですか。
一体どれだけの土を盛って、あの水攻めのシーンの撮影に挑んだのか・・・
そして、水を流す為の巨大な水落装置で18トンの水を高さ10メートルの場所から一気に流して撮影したそうです。
たしかに、今の行田市の街中ではとてもじゃないですが、不可能ですよね(笑)
他にも、山梨県や、滋賀県の土山、そして京都市にある広沢池などでもロケが行われました。
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成田長親と甲斐姫の生涯
成田長親と甲斐姫の関係
甲斐姫は、成田氏の直系の忍城城主である成田氏長の娘です。
かたや、のぼう様こと成田長親(なりたながちか)は、城主氏長の父の長泰の兄弟である泰季の息子なので、甲斐姫と成田長親は「いとこちがい」という関係ですね。
甲斐姫が密かに長親に想いを重ねていても、なにも不思議ではありませんね。
現代でもいとこ同士の結婚は認められているわけですから、全然夫婦になる可能性もあるわけです。
豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が危ういということで、小田原に加勢していたのが、甲斐姫の父である忍城城主成田氏長です。
城主不在の最中は、氏長の叔父である泰季が城代として守っていましたね。
不遇の病死により、急遽その息子である長親が石田光成軍を翻弄するというのは史実によると、本当の話だそうです。
長親は、実際に武芸はからっきし、勇猛さも、智謀にも長けておらず、背だけが大きく一見でくのぼうの様な男だった為、周囲からは「のぼう様」と言われていたとのことですが、実際はどうなのでしょう?
成田長親は劇中の忍城の戦いでたしかに石田光成軍の猛攻撃を耐え抜きました。
知略と、周囲の協力で守りぬいたにもかかわらず、北条氏の小田原城が陥落した為、忍城も明け渡す事となります。
しかし、その後の長親は甲斐姫と結ばれたら良かったのに・・・と思いたいところですが二人は結ばれません。
長親は、この戦いの後に出家。
全国を放浪する旅に出ます。
その後、名古屋の明嶺理察和尚のもとで晩年を過ごします。
実は、この方は忍城の開城の後に、後の将軍徳川家康に乞われて名古屋に行きます。
そして、松平忠吉の師となりました。
成田長親は、晩年この明嶺理察和尚と共に、名古屋を終の住みかとして、その生涯を閉じます。
そして、長親の菩提寺は明嶺理察和尚の開山した清善寺(現在は興国山大光院)となります。
ちなみに「のぼうの城」の撮影スタッフ達は、長親の菩提寺大光院にお参りをしたそうです。
甲斐姫の数奇な生涯 秘話と謎
忍城城主、成田氏長と、上野国金山城主である由良成繁の娘である母との間に生まれます。
元亀3(1572)年ー没年不詳
甲斐姫の母は、父親である由良成繁と、父の成田氏長との関係が悪化した為、甲斐姫が2歳のときに両親が離婚します。
その後、父氏長の継室(再婚相手 ※正室と離円した後に正室となった相手を継室と言い、側室とは違う)の元で育てられます。
20歳になるころ、甲斐姫は「東国無双の美人」と呼ばれるほどに美しかったそうですが、それにも増して武芸に長けており男子でうまれていたならば成田家はもっと繁栄していたかもしれないと言われる人物でした。
実際、劇中でも長刀で相手を討つシーンがありましたが、史実でも甲冑を身につけ、成田家の名刀「浪切」を携えて多くの敵を討ったそうです。
忍城の戦いの後に、蒲生氏郷のもとで身を預けた際も、家内の謀反により一族の身が危なくなったことがあります。
その時、甲斐姫は「忠義のためなら命を惜しまず。関東武士の手並みを見るがよい!」と言い放ち、見事謀反を起こした敵武将を討ちました。
そんな甲斐姫の武勇を耳にした、豊臣秀吉はたいそう甲斐姫を気に入りました。
美貌と武勇に加え、忍城の戦いぶりを聞き、秀吉は甲斐姫を側室にするのです。
史実では、慶長3(1598)年に京都で行われた醍醐の花見で甲斐姫が詠んだ歌が存在するため、秀吉が無くなる間際まで甲斐姫は秀吉の傍にいたものと思われます。
しかし、秀吉の死後の足取りは、ぷっつりと途切れてしまいます。
諸説様々な意見がありますが、確かなことは未だ解明されていません。
しかし、わたしの個人的な気持ちとしては、生まれ変わった輪廻の先で
かつて想いを馳せた長親の生まれ変わりと巡り合い、夫婦となって幸せな生涯を過ごしていてくれたらいいのにと、思えてしまいます。
2歳で母親と分かれ、成田家の直系の娘として勇猛に、毅然に、そして武士の娘らしく生きた甲斐姫。
のぼう様と慕われながら名古屋で生涯を閉じた長親。
現代社会にもし彼らのような人物がいたとしたら、是非あってみたいと思えてなりません。
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