立ち姿、その洗練された柔らかな舞い、気品に満ちたその美しさが、見るものを魅了して離さない当代一の女形
五代目 坂東玉三郎
50年以上舞台に立ち続け歌舞伎界の人気を支え続けた。その功績が認められ2012年 人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定
もともと梨園の出身では無く、その地位を自らの努力で築き上げてきた彼は、どのようにして当代一の女形と呼ばれるまでに登りつめたのか。
そこに至るまでの道のりは、けっして平坦なものではありませんでした。
今日は、五代目坂東玉三郎の人生を詳しく解説したいと思います。
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坂東玉三郎のWiki風プロフと経歴
1950(昭和25)年東京都に生まれる。本名は楡原伸一(にれはら しんいち)
五人兄弟の末っ子
幼い伸一が育った家は、梨園ではなく代々料亭を営む家庭でした。
幼い頃から料亭に訪れる綺麗な舞妓達に憧れ
やがて踊りや芝居が好きな子供に育っていきます。
そして4歳の時から日本舞踊を習い始めます。
その魅力にはまった伸一は、6歳の時に父の友人である歌舞伎俳優十四代目守田勘弥(もりたかんや)のもとへ弟子入りすることになります。
ここからが、伸一の女形へのスタートとなるのです。
当時、小学校に通いながら週三回の稽古に励んでいた伸一ですが、めきめきと上達していきます。
しかし、当時の歌舞伎界は世襲制度が根強かったのです。
「このままでは、歌舞伎俳優にはなれない・・・」
そして、伸一は14歳のときに、思いきった決断をします。
それは、親元をはなれ守田家の芸養子となることでした。
その想いを両親につげた伸一に、父と母が返した言葉は
「お前の思うようにしなさい。ただ、嫌になったらいつでも帰っておいで。」
と、わが子の身を案じながらも、送り出してくれたそうです。
これを機に「五代目 坂東玉三郎」を襲名し、歌舞伎界に飛び込んだのです。
しかし、坂東玉三郎を悩ませる問題がありました。
それは、高い身長です。
美しい女形を演じるには173cmというの身長は高すぎたのです。
舞台に上がると、その大きな立ち姿の女形に、客席から笑い声さえ起こったのでした。
「どうすれば、うつくしくみせられるのか・・・」
悩んだ玉三郎が出した答え
それは、身体を華奢に見せるために、腰を落とし膝を曲げながら演じることでした。
こうすることで、実際の身長よりも15cm低く見せる事ができました。
が、この体制で数時間の舞台を演じきることは、決して容易な事ではありませんでした。
しかし、この玉三郎の実直な弛まぬ努力が、一人の人物の目にとまります。
その人物とは、小説家 三島由紀夫でした。
玉三郎の気品ある美しさに魅了された三島由紀夫は当時の彼の事をこう評します。
「玉三郎君といふ繊細で優椀な象牙細工のやうな若女形が生まれた。歌舞伎というものの異常な生命力の証しである」
この言葉がきっかけとなり、世間の注目が次第に集まり始めるのです。
そして、19歳のとき「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」で主役に抜擢されるのです。
そして、これをきっかけに次々と 大きな役に取り上げられ、歌舞伎界の新しいヒロインとして人気を集めて行くのです。
そうしていくなか、十代目市川海老蔵とのコンビで人気に火がつき、海老玉コンビと称されるようになるのです。
25歳のときには、以前の記事でも取り上げさせて頂いた現在の片岡仁左衛門、当時の片岡孝夫との孝玉コンビが大きな話題となるのです。
このことで、それまで歌舞伎に興味がなかった人達も歌舞伎を見るようになり、チケットは完売するなど空前の歌舞伎ブームを巻き起こすのです。
そんな歌舞伎役者として絶頂を迎えた頃、坂東玉三郎にある病気が襲いかかるのです。
坂東玉三郎を襲った病気、それは心身症
心身症とは、心理的・社会的などの要素により呼吸や皮膚・胃腸など心と身体に様々な障害を及ぼす病気です。
人気があるが故に、舞台や稽古で3年間、一日も休みをとらずに走り続けた玉三郎。
ついに心身が限界となり、人と話す事もままならない日々が続いたそうです。
しかし、舞台に上がっている時だけは、その症状が治まりました。
玉三郎は、そんな過酷な状況のなか、病と闘いながら一度も舞台に穴をあけることなく公演を続けて行くのです。
こうしたことを続けて歌舞伎界を支えていった玉三郎の人気は、やがて海外まで届きます。
1984年には、世界最高峰のオペラハウス、アメリカメトロポリタン歌劇場の100周年記念公演に、なんと坂東玉三郎の歌舞伎が抜擢されます。
坂東玉三郎の演技は、世界中からの喝采を受けます。
2013年には、フランス芸術勲章の最高峰コマンドゥールを受賞。
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玉三郎の歌舞伎に向き合う姿勢
坂東玉三郎は、子供の頃に小児まひを患います。
その後遺症の為、右手を自由に使えず左利きとなりました。
リハビリにより後遺症を克服していきます。
日本舞踊を習い始めたのも、小児まひの後遺症のリハビリを兼ねていました。
梨園の出身ではなかった玉三郎。
幼くして患った病気
女形としては高すぎる身長
人間国宝坂東玉三郎に至るまでには、苦難すぎる道のりでした。
そんな玉三郎は20代の頃から、専属のトレーナーを設けており、毎日舞台や稽古が終るとマッサージをしています。
仕事が終わるとまっすぐ家に帰り、マッサージで身体をほぐしたら眠る。
声の調子を保つためには牛のフィレ肉が良いと言われ40歳を超えてからは毎朝150gのフィレ肉を食べる。そして友人との電話も長話は控える。
すべては、舞台で最高の演技をするために必要なものだから。
坂東玉三郎はこういいます。
「遠くを見ない。明日だけを見る。」
一日一日、明日の事だけを考えて続けていったら50年という月日が過ぎていた。
だから、明日の事だけを大事にしていけば繋がれるかもしれないし
それしかやりようがない
じゃないですか?
坂東玉三郎さんの言霊
あなたは、どう感じましたでしょうか?
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