坂本幸雄(さかもとゆきお)氏は、あの300億の政府からの支援を調達した半導体製造のエルピーダメモリ株式会社を再生、そして破綻まで至らせた元社長です。当時は、マスコミや世間からも賛同と批判の両方を一身に受けましたが、彼の経営方法や哲学はいまなお多くの方の指示を集めています。彼の経歴からエルピーダ時代のエピソード、そして現在までを紹介したいと思います。
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出典:http://president.jp/articles/-/12910
坂本幸雄氏Wiki風プロフィール
生年月日:1947(昭和22)年9月3日 69歳(2016年現在)
出身:群馬県前橋市
最終学歴:日本体育大学 (1970年卒業)
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出典:http://www.ktl-corp.co.jp/devbiz/ti.html
坂本幸雄氏の経歴を時系列でエピソードを交えて紹介
日体大卒業後に、半導体メーカーの日本テキサス・インストルメンツ(T・I)に入社
入社当時は倉庫係として勤務
坂本氏は日体大を卒業して本当は体育教師を目指していました。元々甲子園を目指した球児。体育教師が無理でも高校野球の指導をするなど、野球に関わる仕事にあこがれていました。
しかし、教師にはなれず親戚のつてで、日本テキサツ・インストルメンツに入社しました。ちなみに母体のテキサス・インストルメンツ本社の創業は戦前の1930年です。
お金の知識もなければ、英語も話せない、まして半導体のことなんてなおさら分りません。だからスタートは倉庫で物流の仕事でした。
ある時、会社のコスト削減の話が社内で出たとき、坂本氏は当時商品管理に使用していたアルミ製の容器の回収案を提案します。
これが上司の目にとまり、ただの物流管理をさせておくには勿体ない人材だということを会社が気付き始めます。
当時のアメリカ人上司は、坂本幸雄さんの仕事の精度、在庫の把握能力(数字に非常に強かった)、洞察力、そしてなによりもスピードを評価しました。
後にエルピーダ再生の時にも評価された、「決断の早さ」
その資質は、この当時から評価されていたんですね。
これがきっかけで24歳の時に、生産企画部長に抜擢されます。
驚くのは、1970年代と言えば昭和40年代~50年代
物流倉庫などは、いまのようにコスト管理や情報管理などはコンピューター等は用いずに電卓と伝票で管理されていた時代です。
この時代の物流管理で、生産に企画という文字が組み合わさった言葉なんて存在すること自体が驚きです。
生産部門と企画部門は、当時まったく組み合わさる概念などありません。
体育大学をでて働きだしたばかりの青年の能力を見抜いたアメリカ人上司
そのことを本社に伝えて引き上げる事ができる企業の土壌
そして、24歳の若者に生産企画部長というポストを与えることが出来る企業力
入社当時は、社内運動会を仕切れる程度に生産部門の人事課長ぐらいになれたらいいと考えていた坂本幸雄氏ですが、彼のもつ潜在能力を周囲が埋もれさせることはありませんでした。
29歳で企画部長へ昇進
31歳で製造部長
倉庫番から引き揚げられた当時の事を坂本幸雄氏が、のちにこう語っています。
あるとき、凄まじい不況がやってきてコスト削減が必要だとなり、いろんなアイデアを出しあうことになりました。当時半導体はアルミの容器に入れて出荷していましたが、アルミは高かった。だからそれを回収するシステムを提案したんです。40人くらいを束ねている米国人の企画部長がきちんと見ていて、課長に抜擢してくれた。日本企業でもこういうことはできるはずです。
引用元 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4662?page=2
アメリカ本社時代のある上司との出会い
坂本幸雄氏が、T・I時代に後の企業再生人として飛躍するための貴重な経験があります。
41歳で本社からワールドワイドの開発製造責任者として招聘
7000人もの部下を管理するポストへ抜擢された坂本氏はこの時期に、あるアメリカ人上司と出会います。
その上司の下で2年間アメリカで仕事をするのですが、一度も声を荒げて怒るようなことは無かったのです。
むしろ、褒めてくれる。
坂本氏が何かをすれば、その上司は「これは良い判断だね。君でなければ出来ないことだね。」
その後で、
「この部分はもう少しこういう風に変えた方が良いのではないかな。」と軽く指摘をするのです。
勿論、坂本氏にも苦手な分野もあります。
ところが、褒められると苦手な部分も頑張って勉強しようとやる気が湧いてくる。
坂本氏は日本法人時代、部下に対して厳しい上司でした。
時と場合によっては手もあげていました。
しかし、この上司と出会い『人間は褒めないと伸びない』ということを学ばされたのです。
この2年間で坂本氏はこの上司に育てられ、力を伸ばします。
坂本幸雄氏、テキサス・インストルメンツとの別れ
45歳で日本法人の副社長に就任
次期社長が確実と言われた坂本幸雄氏ですが、アクシデントが起こります。
坂本氏を高く評価していた本社のトップが急逝
新しく刷新された経営陣は、日本法人の新社長として社外から人材を引っ張って来ました。
勿論、そのまま社内にいれば、いずれ社長となる可能性は高かったのですが、坂本氏は尊敬できる人のもとで仕事をしたかったという理由と、50歳という年齢を考慮すると新しい挑戦が出来るチャンスとしてはぎりぎりの年齢ということで退社することを決断するのです。
再生請負人としての出発と実績
最初の仕事は、設立にもかかわっていた合弁会社でした。
神戸製鋼所半導体事業
当時ひん死の経営状態だったのを2年半副本部長という立場で再建
台湾系ファウンドリー(半導体委託製造)の日本ファウンドリー(現在はUMCジャパン)
社長として就任し、2年で黒字化に成功
そして55歳でエルピーダメモリの社長を引き受けます。
エルピーダメモリーの再建へ着手
当時、エルピーダメモリーはDRAM(ディーラム)の製造事業を展開していました。
NECと日立の半導体事業を統合したエルピーダですが毎年250億円の赤字が発生していたのです。
坂本氏は、製造現場、研究開発、資金調達を自身の足を動かして改革を実行。
1年目には黒字化
そして、2年目に株式上場を果たします。
エルピーダ時代、坂本氏は社内で色々な改革に着手しましたが、その中にはこんなものもあります。
肩書での呼称を廃止して、「~くん、~さん」でお互いを呼び合う
従業員同士の密なコミュニケーションを重視するためでした。坂本社長も、周囲から坂本さんと呼ばれていたそうです。
会議は1時間リミット制
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レポートはA4に1枚ルール
国内出張はエコノミールール
海外出張は6時間まではエコノミールール
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元々、大企業の不採算部門を寄せ集めた集団で設立されたエルピーダメモリー
それを短期間で再生、さらに上場まで果たした坂本氏とエルピーダの社員達
しかし、かれらに、その後不幸が訪れてしまいます。
きっかけはリーマンショックでした。
エルピーダに訪れた悲劇
坂本幸雄社長がリーダーシップを発揮し、業績を伸ばし始めた矢先、青天の霹靂とも言える事態が発生します。
そう、あの世界同時恐慌の発端とも言われたリーマンショックです。
バブル崩壊後の日本が、やっと立ち直りかけた時期に訪れた悲劇でした。
1999年に日立とNECの半導体部門で立ち上げたエルピーダ、2003年に三菱電機の半導体部門を吸収した時は、日本が誇るDRAMメーカーとして世界のシェアの大半を手にしていました。
実際、エルピーダが会社更生法を適用することに至る直前の経営状態も決して復活が出来ないものではなかったと考えられます。
自己資本比率が33%、358億円の営業利益を生み出したエルピーダを破綻の道におしやったのは、坂本幸雄氏の判断が間違っていたと言えない話が実はあるのです。
坂本氏は、エルピーダ時代に数多くの半導体メーカーを研究していました。
一時期は半導体は日本のお家芸といわれるぐらい強い産業でした。
1980年代、世界の半導体シェアの8割を日本企業5社が占めていました。
NEC、東芝、日立、富士通、三菱電機です。
これに対して、アメリカは脅威を感じ、日本との協議に発展。
多くの規制やアメリカの国策によりアメリカに抑えつけられた結果、インテルを中心に米国の半導体メーカーは息を吹き返します。
そしてマイクロソフトとの結びつきにより多くのシェアを奪われた日本の半導体メーカーは、残された道として汎用性の高いメモリ系の分野が軸となっていきます。
そこに新たな敵が出現しました。
韓国サムスンです。
サムスンの攻勢により次第に状況が悪化していきます。
出現した新たな問題、円高
坂本幸雄氏は、経営危機に直面します。
その中で、坂本氏は半導体メーカーとして生き残るには、ひとつの分野に特化すべきという考えを以前からもっていました。
それはどういうことか?
インテルはCPUに特化した半導体メーカーです。
坂本氏の古巣であるテキサス・インストルメンツはアナログに特化
世界の半導体メーカーは、最新の技術を追求するために特定の部分に特化して研究開発を集中することで競争力をつけてきました。
アメリカの国策によりCPUはインテルが手中にし、汎用型は韓国サムスンが追い上げて来た。
そんな中で坂本氏は、エルピーダの得意分野としてスマホ向けの半導体の研究開発を視野にいれていたのです。
そんな最中におこったリーマンショック世界同時恐慌
坂本氏は、これにより金策に追われることとなります。
2009年、坂本社長は政府に産業活力再生特別措置法の認定を受けて300億円の公的資金を調達します。
しかし、このことが後に坂本氏の足かせとなってしまうのです・・・
2011年12月、2012年1月と立て続けにアメリカアップル社の担当者が来日し、政府投資銀行にエルピーダの「DRAM」事業はとても重要なのでサポートをするようにお願いをします。
当時、米アップル社は韓国サムスン電子1社の体制になることを強く懸念しており、エルピーダをつぶしてはならないという考えを持っていました。
しかし、政府投資銀行の本音はこうでした。
「日本にDRAMは無くても韓国から買えるから問題ない」
この回答にアップル自体が呆れ果てていました。
ここにきて、坂本社長が頼りにした政府投資銀行の存在が、エルピーダの足かせとなってきます。
メインバンクが政府投資銀行ということで、他の銀行団も手をこまねいていました。
もし、メインバンクが政府投資銀行でなければ、自体は違っていたかもしれません。
また、300億円という投資が中途半端でした。
1000億円の投資であれば、つぶすわけにはいかないと、追加融資がなされた可能性が高かったのですが、そこには至らない点とメインバンクが政投銀ということが、エルピーダを身動きとれない状況へ追いやっていきます。
さらに経済産業省の幹部がインサイダー取引事件を起こした事も影響があったかもしれません。
坂本社長は、他の手を探す為に2011年9月には米マイクロン・テクノロジーとの経営統合交渉をしていました。
マイクロン社のスティーブ・アップルトンCEOは、エルピーダとの統合に意欲を示していました。
実は、アップルトンCEOとエルピーダは2004年ごろから経営統合の話が浮上していました。
坂本社長は、それをずっと辞退してきたのですが、ここにきて救世主となる米マイクロン社とアップルトンCEOに対して前向きな交渉をしていたのです。
ここに、また政府投資銀行から無理難題をつきつけられます。
2011年12月に政府投資銀行側から、提携先を見つけて2000億円の資本金追加投資を要求してきたのです。
当初、財務担当の社員は、2000億円を調達できるのなら融資の必要は無くなるのに、そんなむちゃくちゃな話は無い。冗談にしか聞こえなかったのだ。
しかし、年を明けた1月に坂本社長に報告。
念のため、坂本幸雄氏は政府投資銀行に確認にいくと、「資本金追加はやってもらわないと困ります」と。
この難局を乗り越えなければ、会社がつぶれてしまう。
政府投資銀行のやり方に翻弄されながらも、大局を見失わない坂本氏。
米マイクロン社のアップルトンCEOとの交渉が進行中だった坂本幸雄氏は、荒波の中も持ち前の決断力と意思決定の早さを駆使しながら、ついに2月3日に経営統合の話を形にするのでした。
しかし、ここに来て更なる不幸が発生してしまう。
8年前から経営統合を希望していたアップルトンCEOにとってもエルピーダとの経営統合は嬉しい結果でした。
彼はアメリカに帰った、その金曜日に趣味の自家用機の操縦桿を握った。
プロペラ機で100m上昇したところで、アクシデントが。
そのまま機体の姿勢を戻せず墜落。
これで米マイクロンとエルピーダとの経営統合の話は消滅してしまいました。
最後の最後まで、難局を乗り切るために持てる人脈や財力を駆使した坂本氏でしたが、
ついに2012年2月27日
東京地方裁判所に会社更生法適用と米国デラウェア州破産裁判所に更生計画の認可を申請することに至ったのでした。
一連の不運なアクシデントがなければ、坂本氏が予見していた半導体の特化戦略のスマホ向け半導体の製造が本格化していたエルピーダ。
奇しくも、エルピーダが会社更生法を申請した翌年、スマホブームが到来。
坂本社長の予見が正しい事を証明するのに、足りなかったのは、たった1年の誤差だったのです。
坂本氏は「不本意な敗戦 エルピーダの戦い」を執筆されました。
不採算で青息吐息のエルピーダを黒字化、そして上場という結果をだした坂本氏。
リーマンショックや、政府投資銀行の判断の相違、マイクロン社アップルトンCEOの突然の死。
これ以上無いというくらいの、数々の局面を乗り切っていきついた最後、誰にも予想しえない僅かの誤差で乗り切れなかった悔しさは容易に想像は出来ません。
坂本幸雄氏の現在と新会社
2013年10月
ウィンコンサルタント株式会社設立 代表取締役・CEOに就任
坂本幸雄氏は、エルピーダメモリから退任した後、することがなくなりました。
すると、1週間もしないうちに帯状疱疹を発症します。
通常は、強いストレスにさらされた時に発症するのですが、することが無くなった事が坂本幸雄氏にとって何よりもストレスだったのでしょう。
まだ自分にやれることをしたい。
そうして坂本氏はウィンコンサルタント株式会社を設立します。
現在、坂本氏は数々の講演を行いながら、これからの日本を支える人材に向けてとても良い事を教えてくださっています。
かつて若かりし頃、高校球児だった坂本幸雄氏
高校教師となり甲子園を目指す事を夢見た若者が夢破れてIT業界の倉庫番に
運命を変える出会いと、それに応えるために努力しつづけた坂本社長
数々の不運でエルピーダを救えなかった「不本意な敗戦」
そんな坂本社長は、多くの言霊を私達に与えてくれました。
それを一部紹介したいと思います。
僕は臆病だから、逆にいろんな判断ができるのでしょう。
不況時は好況時の5倍くらい動き、考えるので、市場が悪いときほどいろんなアイデアが出てきます。精一杯考え、仕事に集中するから逆に今が不況だという閉塞感がなくなります。不況時に本当に動きながら考えた会社が、好況時に強くなれます。イージーに過ごした会社は好況の果実をもらえません。
僕は社員たちと現場の情報を共有したうえで、常に一緒に動きながら考えます。社長室も専用車もなければ、海外出張も一人です。自分としては経営者というより、運動部のキャプテンのような感じです。
右に行くと決断し、間違ったら戻ればいい。そう決めておけば決断することは怖くありません。
そのまま残れば、次の社長になる可能性もありました。ただ、自分としては尊敬できる人のもとで仕事をしたかった。年齢的には当時50歳。もう一度、力を試してみようと退社を決断しました。
部下の弱い部分については、褒めた後に、ここはちょっとこう変えた方がいいんじゃないかと言うと、弱点の部分は徹底して勉強しようという気になります。僕は日本にいたころは、部下に対してキツイ言葉を吐いたり、手を上げたりしました。でも人間褒めないと伸びません。
その上司は、僕の2年間の在米中、一度も声を荒げたことがなく、常に褒めてくれました。僕が何か判断すると、これはいいねえ、君じゃなければできないね、と。そう言われると人間って、すごく頑張るんです。
引用元: http://systemincome.com/tag/